アトムの光










すべての空の色を

覚えている

胸の奥に

今テレビに映る

アトムの雲

広がるの……












広島には、一度しか行ったことがない。
小さい時、ちょうど夏の慰霊祭の時に行った。
幼心に覚えているのは灼けつくように暑かったことと、目に痛いくらいの青い空だけ。

朝からリビングのテレビはつけっぱなしになっていた。
朝食の用意をしながら何の気なしに見ていたのに、そのとき私の視線はそれに縫いつけられた。
何故か見覚えのある、空の風景に。

これは………。

ピン、と来るより一瞬速く。
その空を侵蝕するように灰色の雲が膨れ上がった。
画面が切り替わって、遠くからみた映像が写し出される。
原子の雲が、キノコの形をして立ち上っていた。

カチャ────

小さな音がして、私はドアの方に視線をやる。
私以外に、この家にはもう一人しかいない。

「おはようございます。望美さん」
「……」

……弁慶さん。
私は声にせず呟いた。

「…望美さん?どうかしましたか?」

私が無言で突っ立っているのを、弁慶さんは不思議そうな目で見ている。
なのに私の目は、彼の視線と外れてドアの上に掛かっている時計に行った。

──── 8時15分 ────

…そうか、この時間ちょうどに、映像を流してるんだ。
なんで忘れてたんだろう。今日は8月6日だったっけ────。

弁慶さんが私の隣に立った。
テレビでは、原爆が投下された瞬間の映像がもう一度流されたところだった。
空に、突然広がるアトムの雲。
弁慶さんが小さく息を呑んだのがわかった。

「これは…」

言葉をなくしたように呟く、弁慶さんの声。私は彼の顔を見上げた。
何故か「ごめんね」と言いたくなった。
誰にだろう。加害者でもなければ、被害者でもないんだけど。
ごめんね、もう何も、汚したくないのに。
あなたの心も、空の色も。





「世界大戦の話は、しましたよね」

ぽつ
と呟くと、弁慶さんは私の方を見た。
少し惚けたように頷く。

「ずっと昔の今日、この時間、世界で初めてこの爆弾が投下されて…信じられないくらいたくさんの人が亡くなったんです」

弁慶さんは黙っていた。私も。
二人でしばらくテレビの画面を見つめていた。
昔、あなたは言ったよね。
「君の世界は、平和で、豊かなんですね。羨ましいです」って。
違うんだよ。
本当は、違うんだよ。
何百年経っても、人間の凶暴さは変わっていない。
この世界でも、…きっと時空を超えたあの世界よりたくさんの人が悲しんでいるのに、血を流す戦いは無くなっていない。
むしろあの頃より、人の命は軽んじられて。

「!」

唐突に、弁慶さんが私の肩を抱き寄せた。
え?と思って見上げると、彼の左手がまるで熱をはかるように額に当てられる。
その悲しいような暖かいような目。何を思い出してるの?

「……」

弁慶さんの唇が、そっと私の瞼の上に落ちる。
睫毛を啄むようにされて、私は瞳を閉じた。
……なんか、なぐさめられてるみたい。

「…泣いてません」

少し気恥ずかしくて、私は弁慶さんの肩を押し返した。
彼は顔を上げて、切ないような微笑みを浮かべる。

「でも、泣きそうでしたから」

泣きそう……?
うん、いま私、すごく悲しい。
でも涙が出そうなんじゃない、不思議な悲しみ。
戦争も原爆も、知識の上のことでしかないのに、どうしてだろう。
私は、無意識の内に自分のお腹に手を当てていた。

「………」

この子なの?
まだ見たことのない世界の、悲しみを感じているのは、あなた?

「……この子が、いるからかな」

私の言葉に、弁慶さんの表情が切なさを増した。
そうだね、ちょっと切ないね。
産まれてくる私たちの子どもも、悲しみで染まった地に足をつける。
避けてはいけないことだけど。

「……望美」

弁慶さんはもう一度、さっきより深く、私を抱き寄せる。
私の名前をちゃんと呼んで。
また唇が瞼に降りてきたから、私は瞳を閉じた。

その唇が、私の唇の上に重なっても、私は瞳を閉じたままだった。











テーブルにはコーヒー

他になんにもない

こんな朝に

何を残せばいい?












私は弁慶さんの背中に腕を回して、肩に頭を預ける。
ベランダに白い鳩がとまるのが見えた。
夏の空を背負って、鳩が小さく鳴いた。
残すとしたら、切ないまでの平和への祈り。
消えない傷をもう、負うことも、負わせることもありませんように。
この子と、この世界と。

────あなたが。

私は、少し頭をずらして。
弁慶さんの耳朶の下辺り、くちづけた。











弁慶さん。
あなたがずっと抱えて来た罪は昇華して、
でもきっとあなたの傷はもっと深くて、
私じゃ癒しきれていないと思う。

だからこの世界の醜さを見たとき、
あなたの傷が疼いていないか不安で、
隠し事の上手いあなたが、
一人で痛みに耐えていないか不安で。











「すみません……苦しくありませんか」

ふいに弁慶さんのぬくもりが離れて、私は我に返った。
弁慶さんは私のお腹を庇うように体を離して、でも背中に回した手は離さずに、私を見つめていた。
────雲が途切れたんだろうか。
不意にその横顔に窓から差し込んだ光がさあっと当たって、金糸の髪と琥珀の瞳がものすごく綺麗に輝いた。
見慣れた私でも息を呑むくらいに。
空が流れ込んだみたい、と思った。
光は水さながらに部屋の中を満たす。
真っ白な壁に当たってその粒子が反射するように、清浄なものがちりばめられた。
一瞬テレビの音もかき消すほどの神聖な静寂が通り抜けて、時が止まった気がした。

そう────それはまるで、空の洗礼。
あるいは祝福。


……とくん……


「─────っ」

私は突然感じた違和感にお腹を押さえた。

「望美さん?大丈夫ですか?」

弁慶さんが少し慌てて私の顔をのぞきこむ。
………大丈夫、だけど。
…ちょっと待って、これって…?

「今……」

無意識に目線をあげると、心配そうに私を見下ろす弁慶さんと目が合う。


……とくん……


あ、…また…。
また『感触』がした。
予感が確信に変わる。
自然と、顔が綻んだ。

「弁慶さん、今この子、動いたよ」

内緒話を打ち明けるような、小さな小さな声で囁くと、彼の琥珀のような瞳がぴくりと揺れた。

「え?」

その瞳が私のお腹と顔を数回往復する。
私は笑って、弁慶さんの手をお腹に持っていった。
鼓動が聞こえる。
錯覚じゃない。私だけに、確かなこの子の鼓動が。


……とくん……


「…あ─────」
「ね?」

弁慶さんの顔が、初めて見るような表情になった。
驚きと、戸惑いと、そして紛れもない喜びが混在した表情。

「…本当だ……」

ぽつりと呟いた声は子どもみたいだった。
強張っていた手が、そぅっとお腹を撫でる。
慈しみに満ちたその動きに涙が溢れそうになった。

「…今、目覚ましたのかな。…おーい、お父さんが撫でてくれてるよ、わかる?」

お腹に触れる弁慶さんの手に自分の手を重ねて、声をかけてみる。
すると返事でも返すかのように、また動く感触がした。
私たちは思わず笑い声を漏らす。

「あはは、すごい元気だなぁ」
「元気な方がいいですよ…順調に育っている証拠です」

弁慶さんの優しい声に、私は頷いた。

うん。
……うん。
あぁ、ちょっとやばいな…。

「どうしよ……」
「?…何がです?」

体をかがめて、私の顔をのぞきこんでくる……優しい瞳。
…だから、そういうのが、駄目なんだって……。

「涙出そう……」

本当のことを言って。
ごまかすように笑ってみた。
でもその瞬間ほんとに涙がこぼれそうになったから、慌てて弁慶さんの肩口に顔を埋める。
その肩が少し揺れて、弁慶さんが笑ったのがわかった。

「隠さなくてもいいのに」
「……嫌。」

可愛くないことを言いながら、弁慶さんの背中に腕を回す。
彼の腕も、包み込むように私を抱き締めてくれた。

あぁ、ほんとにどうしよう。
幸せ。
幸せ。




ねぇ弁慶さん。この気持ち、私だけじゃないよね?
もう罪なんてないんだよ。
もうあなたを傷つけさせないから。
私があなたも守るから。
……あなたが知らなかった、『幸せ』を感じて、一緒にこの子を迎えてあげよう?




静かになった部屋にテレビの音が聞こえている。
私は、ただ静かに。
祈るように瞳を閉じた。


すべての怒りも、悲しみも、罪も、
私が覚えているすべての空を、
そしていつか私たちの子どもが生まれて来る日、
この子を祝福してくれる空を。

どうか。

穢さないで。







〜END〜
三月頃一時落としてたSSの再録です。
アトム=原子ということで、「アトムの光」とはそういうことです。
何かこういうリアリティのある題材を遙かで扱うべきじゃないのかなぁ…とか色々考えたんですけど……
もったいないのでやっぱりアップ。(貧乏性!)
実は藤宮の弁望初創作だったりします。望美ちゃんも弁慶さんも偽物くさいのはそのせい。笑
時期物(?)なので、8/6にアップしました。

イメージソング 「アトムの光」新居昭乃


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