BLESSING




半ば予感を抱えながら外に出ると、ふわりとあたたかい風を感じた。
決まっていることのように足下を見ると、決まっていることのようにそこにぽつり。
一輪の桔梗の花。

「……今日も…」

家の戸口の先に置かれたそれを拾うと、摘まれたばかりだとわかる瑞々しい花弁の軽やかな手触りとは真逆に、ずしりと心臓が重くなる。


桔梗なんて咲くはずもない、晩春の夕方のことだった。










いつも通りの午後。
いつも通りの道並み。
今日は一日天気が良かった。


「奥さん、こんばんは。こないだはありがとうございました」
「あ、こんばんは!その後お体の方、大丈夫ですか?お薬足りてます?」
「はい、御陰様でもうすっかりましになったんですよ」

望美が家の裏手で洗濯物を取り込んでいると、すぐ上手にある小道を通る人がその姿を見つけて声をかけてくる。
望美が弁慶と二人でこの家に暮らすようになって半年、それは日課になりつつあった。
戦を終えて帰ってきた「薬師の先生」の「お方様」を、五条界隈の人々は好意的に受け入れてくれた。
こうして診療以外の時間にも、近所の人に声をかけて最近の具合を伺ったりするのは、薬師の妻である望美の大事な仕事でもある。
会釈して去っていく患者の後ろ姿を見送って、ふと見上げると五条の川沿いにはほとんど散り終えた桜。

(うん。今日もみんな元気)

意味もなく微笑んでしまいたくなるような陽気だ。
今日の分の洗濯物もよく乾いて、足下の洗濯物を全て取り込んだ籠は衣服や治療に使った布でいっぱいになっていた。
煎じた薬を絞ったりするから、何度洗っても色が染まってしまっている物もあるけれど、この時代じゃ布一枚だって馬鹿にならないのだ。毎日丁寧に洗って使っている。

「さて、よいしょっと…」

望美はその場にかがみ込むと、籠を持ち上げようと手をかけた。

しかし。

「────」

籠に触れる一瞬前、その手をぴたりと止めて息を呑む。



(………だ、れ?)



今。
自分がかがみ込んでいる、目の前に。


誰か、────いる。



ちょうどその時吹いた風が、望美の鼻腔に水のような香の香りを届けた。
その香りが、そこに人がいることと、それが慣れたあの人でないことを確信させる。

(嘘…気配が……しなかった…!)

一瞬前まで誰もいなかったはずの空間に誰かがいるという、異常な状況。
指先は凍り付いたまま、頭の中で警鐘が鳴り響く。それは戦から離れて以来長らく感じていなかった「危険」の感覚だった。背中をひやりとしたものが下る。

「……こんばんは」
「────!」

頭上から声が振ってくるのと、はじかれたように望美が顔を上げるのは同時。
とっさに立ち上がって半歩下がる。立ち上がった瞬間足が当たって、洗濯物で溢れていた籠がひっくりかえった。
しかし望美に、哀れな洗濯物の末路を気に懸けている余裕は残念ながらない。


(誰?)


男────だった。


望美の前に妖か何かのように現れた男は、ひょろりと背が高く、炭のように少しくすんだ黒髪をゆったりと結わえていて、こちらの緊張など感じていないかのように力の抜けた姿勢でそこに立っていた。
身なりは派手ではないがしっかりした物を着ている。武士?────いや、貴族?
その顔も凝視したが、唇が薄く、一重であることくらいしか特徴をあげられないような、不可思議に茫洋とした顔をしている。
当然その顔に見覚えはない。ただ、何か常人とは違う雰囲気があり、望美の緊張を解かさなかった。

「こんばんは。」

先ほどの挨拶には返事がなかったからか。
もう一度繰り返しながら、男の目が面白そうに細められたのを望美は見逃さなかった。脳内で警鐘がさらに音を高める。
そのとき、ふと男が腕を動かした。

「っ!!」

とっさに望美は一歩退く。
しかし彼女の警戒とは裏腹に、男は高い背を曲げると倒れた洗濯籠に手を伸ばしただけだった。

「あーぁ、せっかく洗たのに、土ついてしもたな…」

ぶつぶつと呟きながら、場違いなほどのんびりした動作で散らばった洗濯物を籠に入れていく。
そして全てを拾い終わると、「はい、どうぞ」と微笑んで籠を手渡してくる。
拍子抜けした望美は、しかし男との距離を保ったまま、手を伸ばさずに口を開いた。

「…あ、りがとう、ございます。……あの、患者さんですか?あいにく弁慶さんは今…」
「ああ、おらんのは知ってる。せやなくて、今日はあんたに会いに来てん」
「えっ……」

私に会いに来た?
初対面のはずなのに、何故?

望美の胸の内に、一瞬にしていくつもの疑問が浮かんだ。しかしその疑問はすぐにかき消されることになる。
男が笑って。

「遠くから見とったら意外か思たけど、その反応はさすがて言わなあかんなぁ?『源氏の神子殿』。」

「────!」

弓形にそった薄い色の唇から漏れたのは、戦が終わった今ではもう聞くこともなくなった懐かしい呼称。
望美は声もなくその場に立ちつくした。








筋状の雲が薄くたなびく茜色の空に、小さい鳥の影が並んで飛んでいく。
通い慣れた五条の橋を渡りながらその姿を見やった弁慶は、家まであと少しの道を急ぎ足で歩いていた。

(思った以上に遅くなってしまいましたね…)

今日は予定では数日前に怪我をした患者の往診に行くだけだったのだが、隣の家の老人が咳き込んでいたので薬を処方したり、近所の人に捕まっていろいろ世間話をしたりしているうちに、ずいぶん遅くなってしまった。
帰りは夕方になると告げて出てはいたが、望美は心配しているだろうか。

かたん、

「望美さん、今帰りました」

弁慶は家に着くといつもの習慣で、荷物を上がり口の板間に下ろしながら帰宅を告げた。そして、羽織っていた外套の留め具を外して、それを肩から下ろす、
その途中で、違和感に気付いた。

「────望美さん?」

もう一度家の中に声をかける。
いつもだったら、一度声をかけるだけで明るい声で「おかえりなさい」と返事がある。戸口であげた声が通らないほど大きい家じゃない。
たとえ声が聞こえていなかったとしても、この時間はいつも戸口のすぐ横にある水屋で、望美は夕飯を作っているはずだった。
だが、覗き込んでも水屋には人の気配がなく、竈の煙や、煮炊きの匂いも全く感じられない。

「……、」

弁慶は無言で薄く眉を顰め、外套をその場に落として家の中に上がった。
足音を立てないように奥に向かい、一間一間を覗き込んだが望美の姿はない。
彼女は見つからないまま、ついには一番奥の間まで突き当たってしまった。

(おかしい…)

もしかして、自分の留守中に何かあったのだろうか。
じわりと胃の辺りから嫌な予感が上ってくる。それを何とか押しとどめて、弁慶は祈るような気持ちで裏口から外を見た。
そして。

「はぁ…」

思わず小さく息をついて、張り詰めていた肩を落とす。
望美は家の裏手で、洗濯籠を持って立っていた。今日はいつもより少し遅いが、洗濯物を取り入れるのに時間がかかってしまったのだろう。
弁慶は安心して笑みをこぼし、その背中に声をかけた。

「望美さん、ただいま」
「!」

後ろ姿の肩が目に見えるほど跳ねて、弾かれたように振り返る。
その反応にはこちらの方が驚かされるほどだった。

「望美さん?」
「あ、あれ?弁慶さん、おかりなさい…」
「…何かあったんですか?」

様子がおかしい。
弁慶は素早く草履に足を入れ、望美の元へ近寄ろうとすると、何故か彼女は慌てたように首を振った。

「え?いえ、何も、ないですよ。…どうして?」
「……」

弁慶は無言で眉をしかめる。
明らかに動揺している、のに、それを隠そうとする行動。
普段の彼女はめったなことで隠し事などしない。彼女自身が隠されるのを嫌うからだ。
なのに────。
腕を引き寄せてじっと目を見つめると、翠色の瞳は落ち着かなげに揺れて、終いには斜め下にそらされてしまった。

(言う気はない、か…)

「…心ここにあらず、といった風に見えましたから。何かあったんじゃないんですか?」

もう一度確かめるように問うと、望美の視線は迷ったように一瞬手にした籠に止まって、また首を振った。

「たいしたことじゃなくて。あの、足引っかけて洗濯籠、倒しちゃったんです。ほら、せっかくよく乾いてたのに洗い直さなくちゃーって、ちょっとへこんじゃって…」
「え?」

つられて洗濯籠を覗き込むと、確かに白い布の所々に土がついている。

「あ、ご、ごめんなさい!私ご飯作らないと…!すぐ作りますから、ちょっと待っててくださいね!」
「あ、ちょ…」

腕を掴む力が緩んだその一瞬をついて、望美は弁慶の隣をするりと通り抜けた。そのまま慌てて家の中に上がり込む。




どくん、どくん、どくん、
心臓が喉から上がってきそうなほどに高鳴っていた。
望美はほとんど走るようにして水屋までやってくると、隅の方に乱暴に洗濯籠を下ろし、引きつった呼吸を二度ほど繰り返す。

「…っ、どうして…」

呟いた瞬間に、かくんと膝の力が抜けて、その場にうずくまってしまう。その弾みで、着物の袂からこぼれ落ちた物があった。

「!!」

土間の上に転がる、一輪の桔梗の花。
望美は拾うこともできずに、呆然とそれを見つめる。
頭がぐるぐると渦巻いて、激しく混乱していた。先ほどの態度が弁慶をひどく怪しませただろうという意識も浮かばないほどに。

(どうし、よう…)

あまりに軽く転がった花は、季節にそぐわないはずなのに、何故か驚くほど瑞々しい。








『源氏の神子』

そう呼ばれた望美は、目を見開いて立ちつくしたまま、見知らぬ男と対峙していた。
『普通』の人間は、たとえばこの診療所にやってくる近所の人々などは、決して望美をその名前で呼ぶことはない。
彼女がそう呼ばれて、つい先頃まで続いていた大きな戦の渦中にいたことなど、知らないからだ。
彼女のことをそう呼ぶのは、同じくその戦の渦の中にいた者か…あるいはそれに近しい者だけ。

「…あなたは、誰」

望美は一定の距離を保つようさりげなく気を回しながら、できるだけ平常心で問うた。
しかし緊張は相手にしっかりと伝わってしまっているらしい。表情のわかりにくい顔だがくすりと苦笑されて、望美はむっとにらみ返した。

「誰、なぁ。うーん、名はそんなに簡単に言い交わすもんやない。こう、もう少し奥ゆかしくやな…」
「……」

男は、夢と現の狭間に存在するかのような朧気な容貌とは裏腹に、思ったよりよく口が回るようだ。
だから一層煙に巻かれそうで、望美は相手の言葉を断ち切って口を挟んだ。

「なら、素性は?どうして私の事を知っているんですか?あなたは、源氏?それとも…」

望美の警戒の一番の原因は、ここにある。
戦が終わって、弁慶が軍師の立場から退いても、それを良しとしないものは予想を越えて多くいた。
実際源氏側の人間が、弁慶が鎌倉殿の元で働くことを求めて、わざわざ鎌倉から説得にくることもあった。
弁慶は今までそれを全て断っていたが、弁慶でなければ丸め込んで断り切れなかったと思えるような、乱暴な誘い方の者もいたのだ。それこそ、半ば脅しに近いような。
今目の前にいる男は、弁慶でなく自分に用があると言ってはいるが、油断はできない。
男は軽い口調で話してはいても、その黒い瞳は何もかもを見透かすような妙な力を持っているように感じられた。確証はないが、ただ人とは思えない。

「源氏でも平家でもない。どっちとも関係もない。あんたのことはちょっと知り合いから聞いて、興味湧いてな。あの大戦を終わらせた神子姫ていうだけでも面白いのに、あの源氏の軍師が娶ったて言うたら、どないなお方かと思うやろ。誰でも」
「…そんな理由で来られた人、初めてです」

望美はじとりと男を睨みつけながら言う。
理由は言い訳じみていたし、本当にそういう理由で来られたとしてもどのみち歓迎できる内容ではない。
望美が警戒を解かないのを見て、男はまた面白そうに笑った。この笑みが警戒させるのだ。

「顔が見られたんですから、もう用は済みましたよね。夕飯の支度もしなくちゃいけないから、帰ってもらえますか」

男の不意を突いて籠を取り返す。そのまま男を放って家に入るつもりだった。
しかし。

「……っ、……離して」

望美はこのときほど、得物を持っていなかったことを呪ったことはなかった。
今まで必要以上に近づく気配を見せなかった男が、望美の左手首を掴んだのだ。
低い体温、決して強くはないが抗えない絶妙な力加減、背筋が寒くなる。

「そない怖がらんでも。……神子殿」

男は望美の足先から頭までをすいっと掬い上げるように見て、ふっと笑った。

「体、難儀してはるやろ。辛ないんか?」
「…は…?」

突然言われたことの意味がわからなくて、望美は腕を掴まれている現状も忘れて一瞬ぽかんとする。

(体?)

一体何を言っているんだろう。

するとその望美の反応を見た男は、薄い瞼を意外そうにぴくりとさせてから呟いた。

「なんや、気付いてなかったんか?男君は薬師やろ」
「何…言って…」

薬師と何の関係が────。
望美は不意に、嫌な予感がした。男がそれ以上何かを言う前に、逃げなければいけない気がした。
しかし男は手の力を緩めずに言葉を紡ぐ。

「人をみるっていう点では、神子殿の男君と俺の生業は同じようなもんや。多少方向性は違えども、な」
「離して!」

声を荒げて腕を振り払うと、意外にも男はあっさりと望美を解放した。
大げさな仕草で肩を竦め、拝むように両手を合わせると、にっこりと微笑む。

「…体、よう厭いや。そないなってしもたらもう、いくらそばに薬師がおっても匙の振るいようがないからな」

そして振り返りざまに片手をあげて袂を指さすと、「土産や、一つ目。大事にしてや」と言って帰って行った。


────望美の袂に一つ、季節外れの桔梗を残して。





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