fragile 1






私たちは、たったひとつの確かなものさえ持っていない。











どす、どす、どす、どす

廊下を歩いていると、別に力を入れて歩いてるわけじゃないのに自分の足音が耳に響いて、
前にあの人が「もうちょっと女らしくできないのか」とか言ってたのを思い出して、
頭痛を起こしそうな苛々に拍車がかかる。
いつか譲くんが植えてくれた綺麗な花が咲いているのにも目をくれず廊下を突き当たり、
がらっと乱暴に障子を開いたら…部屋の中には朔がいた。

「あら望美、早かったの…」

朔は言いかけた言葉を途中で止めて、私の顔を見てため息をつく。

「…また、なの?ほんと飽きないわね、あなたたち」
「……」

私は、無言で障子を閉めて、その場にずるずると座り込んだ。


だって私だって、好きでやってるわけじゃないよ。
自分が口が悪いだとか、あまのじゃくだとか、そんなこと改めて言われなくても
自覚してる。
でも。
これは私だけの責任じゃなくない?


ふ、と息をついて、朔はたたんでいた洗濯物を脇に退けた。

「さ、話してみなさい。今日は何が原因で喧嘩してきたの」

私は俯いて、両手で髪の毛を掻き上げる。










「静御前?」

書物を紐解く手を止めて、弁慶は彼にしては珍しくすっ頓狂な声をあげた。

「どなたですか、それは」
「そうか、弁慶も知らないか…」
「…九郎?」

弁慶が新しく手に入れた書を片付けるために、六条の屋敷を訪れたのはつい先頃だった。
借りている一室に入った瞬間、後を追うように九郎が入ってきた。
それはもう、どうしたのかと訊いてやらなければこちらが非情になってしまうほどの
憔悴しきった表情で。

「望美が…疑ってるんだ。俺がそういう名前の女性と…その…」
「男女の関係にあると?」
「あ、あぁ…」

頷く九郎を横目に見て、弁慶は書をまとめていた紐を解く。

「で?」

といきなり問われて、九郎は目をしばたかせた。

「あるんですか?関係」
「…っ弁慶!」

だんっ!
赤い顔をして足音荒く立ち上がった九郎を見もせず、弁慶はしゃあしゃあと言ってのける。

「…で、しょうね。君は同時に複数の女性を愛せるほど器用ではありませんし」
「…それは、器用不器用の問題ではないだろう…っ」

まったく…
とぼやきつつ、再び九郎は腰を下ろす。
その赤い顔を見て弁慶は小さくため息をついた。

「でも特定の名前まで出されているんですよ?どういう流れでそんな話になったんです」
「それ…は…」
「やっぱり後ろめたいことがあるんですか?」
「……っ」

ぐ、と眉を寄せて、九郎は畳の目を見つめる。
おや、と弁慶は思った。
また断固とした否定が返って来ると思っていたのだが。

「……」

しばらく黙ってしまった九郎を、弁慶は書をめくりながら待っていた。










「まあ、また五日も会えないの?」

無言で私は頷いた。
さっき、堀川のお屋敷まで九郎さんに会いに行って、言われたこと。


京は、平和になった。
私たちが、応龍を復活させて、その加護を取り戻したから。
私たちの身の回りも、鎌倉まで行って頼朝さんとちゃんと話をつけたから、安全ではある。
でも、まだ……安定は、してないのが現状。
争乱の後始末のこと、御家人への恩賞のこと。
片付けるべき問題はたくさんあって、京にいつつも九郎さんは物凄く多忙で。
今日だって、一週間振りに会えたのに、また五日会えない、だもんな…。


「でも、望美?それは仕方ないわ…お仕事なのだもの。落ち着くまで我慢しないと」
「うん…それはわかってるよ。だからそれは、仕方ないねって言った」
「あら、そうなの?」

朔は小首を傾げる。
そして、じゃあ何を喧嘩してきたの、と訊いてくる。

「……、…。」

喧嘩……。
改めて聞かれると、言葉に詰まった。
いや、朔にはもういっつもこんな話聞かせてばっかりだから、今更な気もするんだけど。
改めて、…自分の口で経緯を話すとそのとき、やっと自分の非に気づいたりする。
それが…ものすごくばつが悪い。

「あのね、朔。呆れてもいいから聞いてね」

私は朔の顔も見れないままで、ぽつりと話し出した。

「ええ、呆れないわ。話して?」

朔がそう言ってくれたから…私は声を小さく小さくして、告白…する。


「…むーっちゃくちゃ、寂しいの。」


「……」
「……」

ちらりと視線を上げたら、朔はきょとんとした顔で私を見ていた。
…う、やっぱり引かれてる?
って思った瞬間、朔は堪えきれなくなったように笑い出す。

「なぁに?それは当然じゃない、改めてのろけてくれなくても」
「の、のろけ!?」

これってのろけなの!?
指摘されるとなんだかやけに恥ずかしいその言葉に、顔がかぁっと熱くなるのがわかった。
違う喧嘩の原因だってば!

「ち、違う違う。そういうのじゃなくて!えーとなんだっけ?
あ、そ、だからね、寂しいけどやっぱりそんなこと言ったら駄目でしょ、だから…」

そのとき私は一瞬言葉を途切れさせた。
朔が、ん?って顔で、ちょっと小首を傾げたからだ。

「朔?」
「ん…いえ、いいわ。続けて」
え?あ、うん。
なんだ今の間は。

「えーと、それでね。会えないこと、『すまない』って謝られちゃったから、
『そんなの大丈夫ですよ、お仕事頑張って下さい』って…言ったんだよ」

そう…。
笑って…言えた。と思う。
嫌そうな顔、してなかった…はず。

「でもほんとは…寂しかったから。その後九郎さんが言ったことにちょっとつっかかっちゃって」

言うと、朔はうんうんと頷きながら問い返して来る。

「何とおっしゃったの?」










「会えないのは仕事もあるが…その、法王様に宴に招かれている、とな…」
「言ったんですか、馬鹿正直に。」

思い切り呆れた顔で、弁慶は手を止めた。
う、と九郎は頭を掻く。

「…馬鹿か。やはり」
「馬鹿ですね。」

にべもなく切り捨てておいて、弁慶は薄い書を一冊取り上げると、
それを口元に当ててふぅと息をついた。

「そんなこと言ったら、いくら望美さんでも良い気持ちがしないのは当然でしょう。
どうして口にしたんです」
「…黙っているのも、隠しているようで何と言うか…お前の言うとおり、
後ろめたかったんだ。そうしたら…」

九郎は一度言葉を止めて握り締めた拳を見つめる。
そしてはぁとため息して、また続けた。

「あいつは…『その宴、静御前って人も来るんですか』と、怒った声で言い出したんだ」

訳がわからん、と一人ごちて、九郎は完全にうなだれてしまった。
しかしそこでうなだれてもらっても、弁慶には手の施しようがない。

「それで?口論に?」
「…ああ」
「ただ誤解を解けば良かっただけの話じゃないですか。
寂しい思いをさせているのは事実なんですから、九郎が言い返してはいけませんよ」

何故言い返したんです?
と、呆れかえった声音で問われて。
九郎は、かっと顔を赤くした。

「それは…その…」

赤い顔のまま、それを隠すように顔を背ける。
そしてぽつりと呟いた。

「『そんなの』、『大丈夫』…」

え?と、弁慶は視線で聞き返す。

「望美は…俺と五日会えないことを、『そんなの大丈夫』、と言ったんだ。それを聞いて…」

────読めた。

皆まで言わずともその続きが明確に読めてしまった弁慶は、ぐ、とこめかみを
押さえて盛大なため息を堪える。

「俺は、あいつに…望美にこれほど会えないのは、辛い。
でも、あいつはそうではないのかと…思うと…」

少しばかり、苛ついてな。
最後の方はほとんど消え入るような小声で、九郎は呟いた。

「……、あー…」

弁慶は目を閉じて、何から言葉にしようか迷う。

「…………九郎」
「…………何だ」
「…僕が何を言いたいのか、おおよそわかってもらえていると、思うんですが」
「……ああ。今ならお前の考えが読める自信があるぞ」

目は、そらしたまま。
九郎は答える。
弁慶はというと、無言のまま堪えていたため息をついにこぼした。










「望美、その『静御前』ってどなたなの?まさか九郎殿、あなた以外にも…」

朔が少し眉を上げて訊いてくる、その表情を見て私はまたちょっと後悔した。
朔も、知らないんだ。『静御前』のこと。
…やっぱりこの世界には、彼女は存在しないのかもしれない。
────何の根拠もなくあんなこと言うんじゃなかった。

「あのね…。私の世界まで九郎さんの話は伝わってるって、言ったじゃない」
「ええ、確か有名だそうね」

うん、と私は頷く。

「その話では、…源義経には、静御前っていう白拍子の恋人がいるんだ」

白拍子……男装の舞手。
この時代、宴の華として欠かせなかった存在。
だから。

「寂しいなって思ってるときに、宴、なんて聞いて…。ちょっと過剰反応…
しちゃい、まし、た。」

あー、自己嫌悪。
九郎さんがそんな人じゃないって、わかってるのに。
九郎さんは『源義経』とは違うのに。

「望美…」
「せっかく忙しい中会えたのに、馬鹿なこと言ったなぁ、私」

自分でも馬鹿らしくなってきて笑ってみたら、朔がちょっとこっちに寄って来て、
私の髪を撫でてくれた。

「少しだけ…間違えたわね、望美」
「…?」

何を?
顔を上げて目で問い返す。
朔は静かに笑っていた。

「九郎殿にはね、寂しいって素直に言えば良かったのよ。変に気を遣うこと、
なかったの」

──────優しい、仕草。
優しい声。
でも言われたことに、眉を寄せた。

「え、…でも、さ…」

寂しいなんて言ったら、九郎さん困るじゃない。どのみち会えないのに。
そう、言葉にする前に朔は首を横に振った。

「いいえ望美、あなたが寂しいと思うようにね、九郎殿も寂しいと思っているのよ。
会いたいと我が儘を言えば困るでしょうけど、気持ちを伝えること自体は、悪いことでも何でもないと思うの」

むしろね、会えない時こそ気持ちを確認し合うことが互いを支えるのよ。
私と一歳しか違わないのに、私にはあと十年経っても言えそうにないことを
朔は言って見せた。
私が……思いもよらなかった言葉。優しくて。

正しい。

「……想い合う言葉が、相手を苦しめることなんて、ないわ」

もう一度、朔は私の髪を撫でた。
その手は髪を最後まで梳いた後、勇気づけるみたいに背中に触れていく。
私は膝を抱えて、抱えた膝頭にあごを乗せて呟いた。

「…そうなのかな」
「そうなの。」

俯いたおでこを、ぽん、と優しく叩かれる。

「言いたいこと我慢しすぎよ、望美は」

そう言われて、不覚にも涙がこぼれそうになった。


…そんな優しいこと言って。
朔は私に甘いと思う。


俯いたまま黙ってたら、朔はふっと息をついて苦笑した。

「あなたたちお互い、素直じゃないからね…」










弁慶は整理し終わった書物を重ねて、戸棚へしまいこんだ。

「君も彼女も、素直じゃありませんからね…」










「この五日間はいい機会かもしれないわね」

朔は目を伏せて、たたみかけていた洗濯物を手に取る。










「どのみち今すぐ会いに行っても、うまく謝れるわけないんですから」

呆れ声で言って、さて、と弁慶は立ち上がる。










そしてお互いの手のかかる親友にむかって言った。










「「会えない間に、自分の気持ちを確かめなさい」」





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