第二章「そして運命は流転する」 9 「まさか君が京に来ているとはね…」 弁慶はきしりきしりと家鳴りのする床を踏んで、小屋の中へ入っていく。 ヒノエはそう奥まで上がろうとせずに、上がり口に立ち止まって小屋の中を見回した。弁慶がかちんと火を打って、油灯の微かな明かりが雑然と並んだ薬壺を浮かび上がらせる。 「その辺り、適当に座ってください。ここには何も置いてないので、もてなしは期待しないでくださいね」 「相変わらずごちゃごちゃしてる…まあ床と壁が見えてるだけマシかな」 「人の話を聞いていますか、ヒノエ」 「聞いてるよ。ここ、座るぜ」 ヒノエは上がり口の段差に腰掛けた。弁慶も嘆息しながら外套を外して、その場に腰を下ろす。 「…で、本題ですが」 外套をたたむ手を止めずに、さらりとした口調で切り出す。彼の常だ。 切り出された言葉も、ヒノエの予想を裏切るものではなかった。 尾行を気付かれていたことから察するに、尾行の目的も、この叔父は気付いているのだろう。 「どう、思います。彼女のこと」 案の上だ。 彼女────つまり、望美のことについて。 「どうって?」 「今更はぐらかす意味もないでしょう。わざわざ方便まで使って僕らの後をつけていたくらいなんですから、君も何かしら気にかかることがあったんじゃないですか?」 「………」 『君も』 ってことは、あんたも何かしら気にかかってることがあるってわけか──── と思ってヒノエはふっと、先刻別れた望美の姿を思い浮かべた。 子どもを守ろうとしたときの勇ましい姿、礼を言ったときのたわいない姿、弁慶と話していたときの、今にも崩れてしまいそうな張り詰めた姿……。 彼女は自分の中にいくつもの不釣り合いなものを抱えているようで、本当の姿が掴めない。 会ったばかりだからかとヒノエは思っていたが、数月一緒にいたはずの弁慶も引っかかりを覚えているらしいことに、自分の勘が外れていなかったことを悟った。 「オレが京に入ったのは7日ほど前。源氏が黒龍の神子に加えて白龍の神子を迎えたって聞いてね、偵察に来てたんだよ」 「源氏の動向を探りに?」 「まあそれもあるけど…、オレ個人の興味が大半かな。だから動かしてた烏も最小限だったし、望美のことも探ってはいたけど今日まで接触したことはなかった」 「でしょうね。それが?」 弁慶にとって、神子の事が熊野に届いていたことも、それに応じて熊野が動いていたことも、想定していたことだったから驚くには至らない。 それよりも弁慶を驚かせたのは、それに続いたヒノエの言葉だった。 「────あいつ、オレの名前を知ってた」 虫の音のとぎれた瞬間を、とん、と打った、声。 「………え…?」 思いがけない一言に、弁慶は虚を突かれて顔を上げる。 目があったヒノエはいつもの人を喰ったような笑みを浮かべてはいたが、目だけは、暗闇を探るような真剣な目をしていた。 「って言っても、確認できたのは『ヒノエ』の方だけだったけど。通りすがりのふりして助けようとしたのに、いきなり名前呼ばれて…。さすがにちょっと肝が冷えたよ」 弁慶は視線を床に落として、しばし考え込む。 (名を……なぜ…) 望美は、まだ京の生活にも慣れていないからと、朔か景時が同行しない限り外出もしなかった。ヒノエと出会う機会は無かったはずだ。 「……なぜ名を知っていたか、尋ねましたか」 「ああ、あんまり自然にしてるからさ。まさかどこかで見られてたかと思って、直接問いただした」 「彼女は、なんと?」 「……」 他人には気付けないほどささやかに、弁慶の声は急いた気配を見せた。 ヒノエは探るように弁慶の顔を見て、一瞬黙る。 「何も」 「?」 訝しげに眉を顰めると、ヒノエは軽く肩を竦めた。 「何も。……はぐらかされた」 『オレの名前を知ってたのは、どうして?』 興味と期待、後少しの警戒心をもって訊いたあの言葉。 白龍の神子姫と尊名を受けつつも、遠くから垣間見る限り望美はたわいない普通の少女だった。 それがまさか…まさかとは思うが、こちら側が探られていたかも知れないという疑念が湧くことになるとは。 『えっ……ぁ、あ…、わ、たし…』 『オレたち、初めまして────の、はずだよね?』 少し意地が悪いかとは思ったが、たたみかけるように問うて顔をのぞき込む。 疑念を裏切って、望美の表情に浮かんでいたのはどう見ても素人な動揺だった。 邪気がない。 しかしそれに続いた彼女の行動にヒノエは軽く目を瞠った。 望美は内心の動揺を表してせわしなく瞬きを繰り返していたが、ある瞬間少しだけ長く瞼を閉じた。 そして次に開いたときには、その碧玉のような透き通った瞳で、まっすぐにヒノエを見返したのだ。 『ううん。私たち、逢ったこと、あるんだよ…ヒノエくん』 ヒノエくんは、絶対覚えてるわけないんだけど、と彼女は付け加えて少し微笑んだ。 『だから、私はあなたの名前、知ってるの。でも今は────』 はじめまして、ヒノエくん。 「なかなか思わせぶりなこと言ってくれるだろ?」 冗談めかして笑うヒノエに対して、弁慶は再び考え深げに黙り込む。 その様子に、ヒノエは気を取り直すように片膝を立ててその上に頬杖をついた。 「で、あんたは?」 「…僕は、とは?」 「そうやってオレに意見求めるくらいだ。…あんただって気になってること、あるんだろ」 弁慶は、考えていることを素直に話すべきか否か、一瞬逡巡したようだった。 しかし────この甥が相手では隠しても無駄だと思ったのか、一つ息をつくと口を開く。 「気になってること、ね。ありますよ。…しかし多すぎてどこから挙げればいいのか…。まずは」 腕、ですね。 と、何かを思い出すかのように床をじっと見つめながら、弁慶は呟いた。 外から聞こえてくる虫の声が、一瞬出来た静寂を満たす。 「腕?」 「ええ、剣の。」 弁慶は望美が白龍の神子と呼ばれたる由縁を手短に話した。 望美が数月前の木曽攻めの日、宇治川に突然現れたこと。 それまで彼女はこことは違う世界にいたが、白龍の導きにより一緒にいた幼なじみと三人でこの世界に流されてきたらしいと言うこと。 そして黒龍の神子とともに、怨霊を『封印する』という、白龍の神子にしか扱えない御業を示したこと。 「彼女たちがいた世界は、争いもなく平和な世界だったと言います。戦や、もちろん刀の扱いさえも、ここに来るまで彼女は知らなかったと」 「数月前まで?」 ヒノエは珍しく驚いた様子で、目を見開いた。 「まさか。絡まれてたとき、剣抜こうとしてたぜ。綺麗な構えだった…ありゃ、だいぶ…」 「ええ、馴染んでいますね。馴染みすぎているのが疑問なんです。剣や刀なんて、非力な女性がしばらく型を練習したところで、実戦で扱えるわけもない」 しかし彼女は呼吸をするようにあの白銀の剣を振るう。無駄な動きなく、それこそ舞うように軽やかに。 ましてや一度見ただけで花断ちをやってのけるなど……。 「天賦の才?……なんて言葉じゃ、片付けられないんだろうね。オレは姫君の剣をまだ見ちゃいないけど」 「範疇を超えています。才能だけであそこまでは………それに」 「それに?」 「彼女の手には────まめがないんですよ」 『失礼』 『ひぇっ!?…な、なんですか!?』 『手は、大丈夫ですね』 『は、はぁ?』 『九郎が昔よくやったんですよ。稽古に明け暮れすぎて、気がついた時には手をまめだらけにしていてね。…君も同じじゃないかと思って心配しました』 あのとき、確かに彼女の手にはまめはなかった。代わりにあったのは何年も剣を振り続けた者のような剣だこだ。 あれではまるで────まるで、数年来剣を振るい続けた者のような…。 「あんなに毎日追い立てられるように稽古ばかりしていて…。剣を触ったばかりの、それもただでさえ柔い女性の肌が、まめの一つも作らずに耐えきれるはずはありません」 しかも、と弁慶は思い起こした。 望美とともにこの世界に来たという譲は、まるきり初心者だという望美とは違って弓のたしなみがあったらしい。 なるほど良い腕をしていると思ったのは確かだが、やはり戦場に出るとその背中が戸惑っているのがわかる。 一言で言うと戦慣れしていないのだ。 しかし彼女はと言うと────。 「目が……」 小さく呟いた言葉は、初めヒノエの耳まで届かなかったらしい。彼は眉を顰めて聞き返した。 「何?聞こえなかった」 対する弁慶は、今呟いた言葉をもう一度、はっきりと音にすることを一瞬ためらう。 そんなはずはない。あるはずがないと思いながら、そうでなくては矛盾することもある。 どれが真実だ? 「彼女の目は……戦いを知らない者の目じゃない」 思い起こすのは、初めて会ったときの彼女の瞳。 彼女は巧く隠したつもりだったのかもしれないが、弁慶は確実にとらえていた。 彼女が現れた自分を見て、一瞬だけ感情の燃え上がるような複雑な瞳の色を見せたこと。 あの時だけではない。望美は時折ふとその瞳で自分を見つめる瞬間がある。 それはまるで、なくしていた思い出を見つけた安堵のようでもあり、大切な者を奪った敵を見る憤りのようでもあり、手が届かない幻に逢った悲しみのようでもあった。 そんな複雑で深い瞳の色。 あれは、幸せなだけの世界で生きてきた少女が見せていい色ではない。 だからだろうか…。 その瞳で見つめられるたび、心の奥底が不可解にざわついて……ひどく引きつけられるのは。 「あの人は…望美さんは、戦場に馴染みすぎているんですよ。…時折、僕たちより死線を見てきたような目をする」 弁慶が目を細めた瞬間、じじっ、と、心臓に悪い音がした。 油灯の明かりに誘われた羽虫が、火に近づきすぎて羽を焼かれたようだった。火影が揺れる。 ヒノエの、炎と同じ色の瞳が、少し烈しさを増した。 「あんたまさか、望美がもう平家の息がかかった────平家の間者だと、思ってる?」 「────、」 唐突に核心を突く甥の言葉に、一瞬弁慶は言葉を呑む。 そうだ。 突き詰めると……こうして抱えている彼女への疑念はつまり、そういうことになってしまう。 (…僕はどう思っている?) 「……君は、どう見ます」 そう問うということは、ヒノエも同じように考えているのだろうか。 思って弁慶は、自問の答えが浮かぶ前に問い返す。 しかし。 「ない。」 それ以上を拒むように、多少の怒気を含んだ声音でヒノエは言い切った。 はっきりと、否定した。 思いもしなかった攻撃的な反応に弁慶は思わず軽く目を瞠る。 するとこちらを見ていたヒノエと目があった。ヒノエは弁慶の口が何故と動く前に言いつのった。 「まず、平家がそんなことをする理由がない。ただでさえ平家が圧してるんだ、白龍の神子が向こうに与したなら確実に源氏は負ける。わざわざ危険な間者に仕立て上げて、送り込む利点もないだろ」 それは────確かだ。 第三者であるヒノエの、熊野の視点から言われるまでもなく、戦の現状は未だ源氏に不利だ。 錦旗はこちらにありといえども、平家は死反という圧倒的な力を手に入れてしまった。 「それに間者にしては、あいつの行動は大きすぎる。敵の懐に潜り込んでる奴が六波羅なんて揉め事市みたいなとこ通ったり、ましてや絡まれたからって抜刀騒ぎとか、起こすとは思えない。なにより────」 一息で言い切ったところを急に言葉を切って、ヒノエは脚を崩した。 そのまま軽く反動をつけて、音らしい音も立てずにその場に立ち上がる。 そして高くなった目線から弁慶を見下ろすと、もうほとんど睨みつけるようにして言葉を繋いだ。 「…しばらく偵察してたけど、あいつが、悪意を持って源氏にいるようには見えない。確かにオレだっておかしいと思うところはあるけど、そこまで考えてるとは思わなかったよ。……あんた、本気で疑ってんの?」 本気で。 疑っているのか。 彼女が、危険な存在だと────…… 「………」 弁慶は、自分の内心の深いところがふっと揺らぐのを感じて、ヒノエから目をそらした。 しかしそれも一瞬で、すぐに顔を上げてにっこりと笑顔を作る。 「どうでしょうね。疑っているように見えますか?」 ヒノエは盛大に嫌な顔をしてみせた。 「…質問に質問で返すのは卑怯なんじゃないのかよ」 「おや、すみません。そんなつもりは無かったんですが」 くすくすと笑いながら、弁慶も裾を捌いて立ち上がる。 そうやって弁慶が少し笑うだけで、今まで緊密していた空気がすぅっと流れ出したような気がするのに、ヒノエは憮然とした表情のまま。 最後とばかりに睨みつけて、低く呟いた。 「あんたその、自分から進んで足場狭くするような考え方…気に入らない。人はちゃんと見分けろよ」 そう言い残して。 ヒノエはくるりと踵を返し、もうすっかりと更けた夜闇の中へ消えていった。 それを無言で見送った弁慶も、眠る準備をするために奥に入っていこうとする。 その視界にふと、ぞんざいに置かれている薬壷が入った。今日使っていたものだ。 瞬間、溢れるようによみがえったのは、今日一日をともに過ごした望美の表情。 行き道、ちょっとからかうと頬を赤くして拗ねたようにした。 治療中は、薬や布を取ってもらう程度のことしか頼んでいないのに、ものすごく神妙な顔をしていて。 子どもたちと遊んでいるときは、こんな顔も出来たのかと思うくらい、満面の笑顔で────。 そして。 『じっとしてられないんです。人が元気になるためなら、なんでもお手伝いしたい』 薬師の仕事を手伝うと言ったときの、あの真剣なまなざし。 あの瞬間、自分は……。 (────嬉しかった) 嬉しかったのだ。 自分が守ろうとしているものを、同じように大切にしてくれるまなざしが、本当に嬉しかった。 あのまなざしに嘘はなかった。 「…………望美さん…」 先ほどヒノエに質問で返したのは、何もはぐらかしたかったばかりではない。 自分がどう思っているのか、本当にまだ、うまく掴めないのだ。心がざわつく。 けれど。 『弁慶さん』 別れる前の、今にも消えてしまいそうに見えた彼女の姿が脳裏をよぎった。 (僕の本心は……きっと、君を信じたいと思っているんだろうな) あの張り詰めた細い肩を、支えてあげたいと、思ったから。 |