ふぅ……。
望美は長いため息をつきながら、今日も家の前に置かれていた桔梗の花を文箱にいれた。
これで五日目。花は五つになった。
五日目にもなれば初めの花は萎れていそうなものだが、花はどれも摘まれたその時のままであるかのような瑞々しさを保っている。
もとより季節を無視したあり得ない花なのだから、おかしいと思うこと自体、無駄なのだろうが。
文箱を膝の上に置きながら、望美はぼんやりと考えた。

(この花は…何を意味してるんだろう…)

でもそんなことは。
望美はきゅっと下唇を噛む。
でもそんなことは、この五日間ずっと考えてきた。でも答えなんて出るはずがなかった。何もわからないんだから。
体の様子にだって自分なりに気をつけてみるけど、病の兆候は感じ取れなかった。
どこが痛むわけでもないし、倒れるわけでもない。
あの男と会ったことも夢なんじゃないかと思えるほどに平常だったが、この毎日届けられる桔梗だけがそう思うことを許してくれない。
望美はもう一度大きくため息をついた。

「弁慶さん……怒らせちゃ、った」

あの日尋ねられたことを、見え透いた嘘で押し切って以来、弁慶はそのことに触れてこない。
ただそれが、自然な状態でないことはわかる。きっと彼は、怒っているのだろう。
今日も自分に行き先も告げないで、外出してしまった。

「…怒らせたくも、ないのに」

どうしよう。もうこうなってしまえば、どちらも同じような気がする。
黙っていても全てを話しても、弁慶を傷つけることには変わりないんじゃないか?

(今日……弁慶さんが帰ってきたら…)

「全部、話そう」

そう、声に出して決意したとたん、喉に引っかかっていたものがすとんと落ちた気がした。
きっと、これが一番いい方法だ。
納得すると体が軽くなった気がした。望美は弁慶が帰ってくるまでに全ての家事を終わらせてしまおうと立ち上がりかけ────
また、その場に座り込んだ。

「……え…?」

立たなかったのではない。
立てなかった。

「……ぅっ…」

立ち上がろうとした瞬間、眩暈と、体の中身がひっくり返ったような気持ち悪さが襲ってきた。
乗り物に酔ったときのような不快感。
はっとして首筋に手をやると、熱い。上に、脈拍が速い。

「う…そ……」

望美の呟きは、木の床に跳ね返って小さく響いた。











(朔殿なら、何か聞いているんじゃ…)

弁慶は活気づいた昼間の往来を、早足で梶原邸へ向かっている。
望美が隠していることを知っているかも知れない唯一の人間に、話を聞きに行くためだ。
この意図を知られたら止められるかも知れないと思い、望美には今日の外出の行き先は告げられなかった。
あんなにも強く自分を拒絶するほど、望美は何を隠しているんだろう。
…どうして、隠すのだろう。
下手をすると深く沈み込みそうになる思考を無理矢理引き上げて、弁慶は梶原邸の門の前に立った。
笑顔を繕って門の側に控えていた雑色に会釈すると、見知った弁慶の顔にあっさりと通してくれる。

(さて、朔殿は…)

弁慶が誰かに朔への取り次ぎを頼もうと、辺りを見回したときだった。

「!べ、弁慶!!」

聞き慣れた声に名前を呼ばれて、弁慶は声のした方を振り返る。
振り返るまでもない。この邸の主がそこにいた。
やけに慌てた様子で走ってくるが、何かあったのだろうか。

「景時?つい今お邪魔したところなんです。今日は…」
「うんわかってる!ごめんっ!!」
「……は?」

今日は、朔殿はいらっしゃいますか。
そう訊こうとした言葉が、藪から棒に腰を直角に折り曲げて謝罪されて、かき消される。
さすがの弁慶も、とっさに思考回路が展開に追いつかない。
しかし、次の景時の一言に弁慶は我に返ることになる。

「あの人が何か望美ちゃんに言ったんだよね?何言ったんだか知らないけど、気にしてるなら謝っておいて…!」

(……『あの人』……?)

その時、様々な符号が弁慶の頭の中で音を立てて繋がっていった。



あの人

景時

謝罪

数日前見かけた不審な男────



「…────景時」
「うっ、え!?」

唐突に胸ぐらを掴まれて、景時は妙なうめき声を上げてたじろぐ。
しかし次の瞬間、目の前にいた友人の顔を見て凍りついた。
人に掴みかかっておきながら、弁慶は恐ろしいほど綺麗に微笑んでいたのだ。それはもう、にっこりと。

「べ、べ、べんけい?」
「…詳しい話を、聞かせてもらいましょうか」

あれ、オレ、何かまずいことしちゃったかな。
景時は今更ながら自分が早まったことに気付いていた。







「望美さん…っ!!」

いつもよりだいぶ早くに帰宅した弁慶は、ひどく慌てた様子で家に上がってくる。
そして望美がびっくりして、お帰りなさいと言う間もなく。

「……っべ、弁慶さん!?」

────望美は弁慶の腕の中に、抱きしめられていた。

「えっ…ちょ、ど、どうしたんですか!?」

こんな弁慶は見たことがない。
条件反射で腕の中から逃れようともがくと、一応腕の力を緩められたが解放はされず、ついでにものすごく真剣な顔で見つめられた。

「望美さん、あの男に何を聞かされたんです」
「は、はい?」

唐突すぎて、何の話だかさっぱり理解できない。
今度は望美が先ほどの弁慶のような立場に追いやられていた。

「あ、あの男?聞かされたって、え?」

その望美の反応に、弁慶はやっと自分が焦る余り論理的な手順を欠いていることに気付いたらしい。
自分を落ち着かせるように一度深く深呼吸をすると、望美の翠の瞳をじっと見つめながら、改めて問うた。

「泰成殿は、君に何を話したんですか?」
「や…すなり、殿?」

耳にしたことのない名前だ。
弁慶はきょとんとする望美の様子を見て、「名前も名乗らなかったんですかあの男は」と小さく悪態をつく。

「…背の高い、線の細い男です。目つきの悪い見るからに怪しい男。来たでしょう」
「!!」

望美はあからさまにはっと体をこわばらせて身じろぐ。
その弾みで、彼女が持っていた文箱が手から滑り落ちた。
がたんっ、と派手な音を立てて床に落ちた文箱はその拍子に蓋が開いて、中に入っていたものが散らばってしまった。
五つの桔梗の花。
望美は、あ、と小さく声を上げてそれを目で追う。対して弁慶は不機嫌さを隠しもせずに眉を顰めた。

「桔梗…ね。これで名を告げたつもりだったんでしょうか…まわりくどい。望美さん、これは全部泰成殿が?」
「あ、あの、弁慶さん。あの人を知ってるんですか?」

未だ少し話について行けていない望美は、とにかくそのことを弁慶に確認した。
確実かどうかはわからないが、弁慶の言っている『泰成殿』と、自分が病気だと告げたあの男は、同一人物であるらしい。
弁慶は望美が「あの人」といった瞬間、また珍しいくらいにひどく不機嫌な顔をしたが、小さく嘆息するとしっかりと肩を掴んで、まっすぐ彼女の顔を覗き込んだ。

「一、二度見かけた程度ですが、知っています。彼に、何を聞いたんですか?」

望美は少し、息を呑む。
榛色の明るい瞳が、驚くほどの真摯さをもって今自分を見つめていた。その透き通るような色を見つめていると、不思議な感情が胸の中でざわめく。
つい先刻、今まで隠していたことも病気だと言われたことも全て話そうと心に決めたというのに、いざこの瞳を目の前にすると喉が詰まったように言葉が出ないのだ。

(あ…また…)

やがてさっきも感じた気分の悪さが波のように押し寄せてきた。
天地が逆さになったような浮遊感に思わず弁慶の腕にしがみつくと、それに気付いた弁慶が握りしめた拳の上から手を重ねる。
温かい。
抱きしめられている人の体温に、ゆっくりと喉のつかえが解けていく。望美は弁慶の胸に顔を埋めるようにして、口を開いた。

「私……病気、なんだって」




「────……え……」




静寂に、弁慶の声が、ぽとりと落ちた。



「病……気…?」

信じられないものを、おそるおそる確かめるような弁慶の声音に、望美は顔を埋めたままこくりと頷いた。
胸が、心臓の奥が、ずきずきと鈍い痛みを伝える。
頷いたきりどうすればいいのか、もう何もわからなかった。
ただ一つわかるのは、今顔を上げればこの痛みがひどくなるということだけだ。

「こないだ…5日前ね、あの人がうちに来て、病気になってるって…言ったの。……もう弁慶さんじゃ治せないって、言われた」
「そんな……泰成殿がそう言ったんですか!?」

弁慶は思わず声を荒げて、望美の顔を覗き込もうとした。
しかし望美は目を合わせることがどうしてもできずに、拒むように顔を弁慶に押しつける。
しかし、彼女の言が本当ならば。『彼』が病だと告げたのならば、それは重大なことだ。

(…僕の方が焦っていてどうする…!)

弁慶は望美に聞こえないように舌打ちをして、冷静になろうと自分を叱咤した。
病だとしても、まだ治らないと決まったわけではないのだ。
とにかく自分より腕の良い薬師を探して……いやそれよりまず、自分が彼女の症状を把握しなければ。見たところ外面的な症状は見られないが────。
弁慶は顔を上げない望美を、もう一度優しく抱きしめた。

「大丈夫です、望美さん。必ず治ります、治しますから……安心してください。大丈夫」

ゆっくりと語りかけ、全身で安心させるようにとんとんと背中をたたく。
それが功を奏したのか、少し落ち着いたらしい望美がおずおずと顔を上げる。
弁慶は安堵して少し微笑んだ。
たくさんの危険を賭して、それに打ち勝って、やっと得た人だ。
天が召そうと────悪鬼が招こうと、手放すつもりはない。

弁慶は望美の頬に手を当てて、その顔を覗き込んだ。
特に顔色は悪くはない。しかしその頬が少し熱い気がした。

「あれ…熱がありますか?少し」
「…さっきから、ちょっと…」

望美がぽつりぽつりと答え始めると、弁慶はほっと息をつき諭すように続きを促す。

「他には?どこか痛んだりはありませんか?」
「それは…ないです。でもさっきから…何だか体が重くて。眩暈もして…」

一つ一つ聞き出しながら、弁慶は内心で首を傾げた。
体感している症状はあるようだが、これといって特殊なものがない。敢えて言えば風邪の症状に似ている。
まさかとは思いながら、弁慶は一応尋ねてみた。

「寒気がしたりは無いですか?関節が痛んだり」

その問には、望美は首を横に振った。やはりただ風邪というわけでは無いらしい。
弁慶が再び考え直そうとすると、「あ、でも…」と望美が口を開いた。

「…頻繁に、気分が悪くなるんです。さっきも、ご飯作らなきゃと思って立ち上がろうとしたらものすごく気持ち悪く……」
そこまで言って、望美は言葉を止めた。
弁慶の表情が心なしか変化したからだ。

「……弁慶さん?」
「あ、いえ……いや、あの…」

不思議そうな視線を送られて、弁慶は何故か妙に口ごもる。
そして数瞬迷った後、確かめるようにこう尋ねた。

「えーっと……食事を作ろうとしたときに、気分が悪くなったんですか?…今何か食べたいと思います?」

望美は弁慶の言葉を聞きながら訝しげに首を傾げていたが、ふと考えるように視線を宙にさまよわせた後、突然顔をしかめる。

「やだ、また気持ち悪くなってきた……無理です、今ご飯食べたくない…」
「………」

答えに、弁慶は二、三秒沈黙する。
すぐに気を取り直したようにもう一つ、質問をした。

「じゃあ、何だったら口にできそうですか?あー…その、果物、とかは?李とか、干し梅なんか…」

とたん、望美が驚いたようにぱちりと目をしばたかせる。
信じられないものでも見るかのように弁慶を見つめて、呟いた。

「あ…李、梅干し…とかなら、食べられそう。というか、食べたい気もする…」

弁慶はじっとその表情を窺った。しかし彼女は純粋に、自分の口にできるものを当ててみせた弁慶に驚いているだけのようだ。

「…う、うーん?」

弁慶は望美の背に腕を回したまま、困惑して思わず考え込んだ。
何かがおかしい。
この症状は────あの…いわゆる、あれ、なのでは、ないだろうか。
………『身に覚え』なら、ある。

「………」

その可能性に思い至った瞬間、今度は弁慶が望美から顔を背ける番だった。
すぐに口元を手で押さえる。
そうでもしないと、口元が緩むのを隠しきれなかったのだ。

「…弁慶さん?」

まだ真実に気づけていない望美が、突然黙ってしまった弁慶に遠慮がちに声を掛けた。
彼女も何かがおかしい事には気づいているようで、戸惑った表情をしている。
弁慶は、ともすれば緩みそうになる頬を精一杯引き締めて望美に向き合った。

「…望美さん、もう一つ聞いてもいいですか?」

心臓が、少しずつ高鳴りを増して緊張していくのがわかる。
慎重に、言葉を選ぶようにして望美に問いかけた。
最後の確信を得るために。

「……泰成殿は、はっきり君が『病』だと、言いましたか?」



────それが、契機。





────ぱちん…


泡のはじけるような、ちいさな音が、

した。





「!」

突然、上向きの風が巻き起こって望美の髪がふわりと広がる。
息を呑む間もなく、傍らに散らばっていた桔梗が、すい、と浮かび上がる。
桔梗は中空で等間隔の円を成した。
一つ一つがほのかに輝いて、やがてお互いを光の線で結び合う。

五芒星。

見覚えのあるその印に望美が目を瞠るのと同時、印を結んだ桔梗は微かな芳香と強い光を放ってはじける。
光が去った後には────

「……え……?」


────そこには、一人の童子の姿があった。

肩までのつややかな黒髪、目鼻立ちの優しい可愛らしい子ども。
不思議と少年のようにも、少女のようにも見えた。
唖然とする二人の前で、その童子は丁寧に一礼する。
そして頭を上げた後、こう言った。


『ご懐妊、おめでとうございます。神子殿、弁慶殿』


童子は何かを差し出すかのように両手を伸べる。
そのとき、ぱちん、とまた小さな音が響いて。
現れたときと同じように、童子は光の粉と豊かな花の芳香ををまき散らして、消えた。





「…………」

部屋の中に残ったのは、光の残滓と、芳しい花の香り、そして、言葉を失った二人だけ。

「………い、まの……?」

突然起こった出来事に頭が真っ白になった望美は、自分が今聞いた言葉の意味が、よくわからない。
ただ反射的に、弁慶の顔を見上げようとする。
────しかしそれもかなわなかった。



弁慶はとっさに、望美の腕を引く。
彼女の体が傾ぐ。その肩を、しっかりと両腕で抱き寄せて、抱きすくめた。

「……は」

笑いにも嗚咽にもなりきれなかった、ただ熱いだけの吐息が肺から押し出されるようにして漏れる。
この小さな、今自分の腕の中におさまるほどの小さな体で、この人はいくつもの奇跡をくれるのだ。
かつて自分の命を救う奇跡を起こしてくれた、この人が、今度は……。
愛おしかった。この腕の中にいる彼女が、初めて自分に身を任せてくれた時と同じくらい……望美の事を愛おしいと思った。
限りなく近づいた彼女の心音が伝わってくる。この心音が、今彼女の体内で二つの命によって共有されているのだ。
間違いなく今ここに────自分と愛する人との、新しい命が。

「べんけ…さん…」

その頃ようやく、望美にも事態がじわりと飲み込めてきたようだった。
呆然としたままされるがままに抱きしめられていた彼女の脳裏に、5日前泰成と交わした会話がよみがえる。


   ────体、難儀してはるやろ。辛ないんか?

   ────そばに薬師がおっても匙の振るいようがないからな…


(────っ!!)

泰成は、病気だとは言わなかったのだ。そう思いこんだのは自分だった。
弁慶が匙を振るえなくて当然だ。病でなく妊娠なら、そこから先は産婆の仕事になるのだから。
まったく気付いていない望美を見て、泰成は桔梗を残していったのだ。
かぁっと望美の頬に赤みが射す。

「…赤ちゃん…?」

まだふくらみのない腹部に、そっと手を当てた。
この中に今、半分自分から、半分は弁慶から、できている命がある。
この中に入ってしまうほど小さな、しかし確かな生命の芽が。

「ほんとに……?」

不思議な高揚感が彼女を襲う。
心臓から指の先端まで余すところなく血が巡り、全身がふわりと広がるような感覚。

「望美さん」

弁慶は望美の頤に指をかけて、その顔を上げさせた。
視線が交わされる。
その瞳に、彼らはお互いにはっきりとわからなかった自分の感情を理解した。
この鮮烈な感情。これは喜びなのだ。

湧き上がる想いに抗わず、弁慶はそっと身をかがめ、望美に顔を寄せた。
心を込めてゆっくりと、その唇を重ねる。
ふっと香るように伝わる体温。そして心音。息づいているものの証。
もっと強く感じたくて、弁慶は口づけを深くした。望美も、やわらかくそれを受け止める。

「────……」

長い口づけのあと、同じようにゆっくりと唇を離すと、とたんに望美は俯いてしまった。

「…望美さん?」
「…ちょっと……見ないで」

弁慶は声を立てて笑った。そうして再び、彼女の体を抱きしめる。

「はい、見ません。」

しかし望美の隠そうとしたものは、今の一瞬に見えてしまっていた。不意にこぼれた涙。
溢れてくる感情の波に嗚咽は漏らすまいとして、その肩が小刻みに震えている。弁慶は腰に回していた手を少し上げて、熱を帯びた背中をあやすように叩いてやる。
望美は弁慶の胸に額をすりつけて、答えるように小さく頷いた。また、肩が震え出した。

(…ちょっと混乱してるんですね)

望美の背中を叩いてやりながら、弁慶は苦笑する。
今彼女を襲っている感情は、喜びと、安堵と、その両方だろう。よほど不安にさいなまれていたのだから。

「…病だと思っていたんですか?ずっと」

耳元で囁くように尋ねると、望美は一瞬躊躇った後にこくりと頷いた。

「…怖かった?」

再び頷く。顔を埋めたまま呟く。

「死んじゃうんだと思って…側にいられなくなると思った…」
「だから隠していたんですか?僕にも」

しかし、続く問いには望美はしばらく答えない。
かなり長い時間をおいた後、彼女は目元をぬぐっておそるおそる顔を上げた。

「…ごめんなさい」

二人しかいない静かな部屋でも、耳を澄ませないと聞こえないほど小さな声。
弁慶は堪えきれず苦笑して、望美の目にかかる前髪をはらってやると、開いた額に自分の額をそっと押し当てた。

「………ちょっと、傷ついた、かな。されるとつらいものですね、隠し事」
「ごめんなさい…私勝手に勘違いして」

少々意地の悪い言い方をすると、望美は眉尻を思い切り下げて心底困り切った顔になってしまった。
先ほどとは別の意味の涙がこぼれそうになる。
さすがにいじめすぎたと思い、弁慶はすぐに首を振った。

「ああ君は悪くありませんよ。全部あの男の責任です」
「あの人…やすなりさん?一体誰なんですか…?」
「…君が知る価値もありませんよ。人をからかうのを生き甲斐にしてるような男です。今回のことだって君の誤解を招くような言い方をしたに決まってる……。いいですか、もう会っても二度と口を聞いてはいけませんよ」

最後の一言が妙に剣幕を帯びていて、望美は気圧されるように頷いてしまった。
ここまで言われたら逆に興味をひかれてしまうのだが。

「…あ、でも、お祝いしてくれたんですよねきっと。さっきの子、あれって…」

ああ、と弁慶は忘れていたことを思い出したようにまばたきする。
あれは────あの式神は、確かに言祝ぎの意味合いで贈ったのだろう。しかし、それに至る過程が悪すぎる。
弁慶は一つ咳払いをして、言い聞かせるように言った。

「……あれはあれでいいとして。君の心労が増えますからもうあの男のことは忘れてしまってください。ややに障りがあったら困ります」

その言い方や表情が、弁慶には滅多に見られないくらい必死だったので、今度は望美が思わず噴き出した。
弁慶がこれだけ悪く言う人も珍しい。
会話したときは警戒していたが、あの祝いをしてくれたことで少しいい人かもしれないと、望美自身思い始めているのに。弁慶は毛嫌いしているようだ。
何だか目の前にいる人が妙に可愛くみえてしまって、望美は満面の笑みを浮かべると自分からも弁慶に抱きついた。

「大丈夫。元気な子、ちゃんと産んでみせますから。お父さん!」

一瞬目を丸くした弁慶もぷっと吹き出して、望美と、その胎内で鼓動を始めたまだ間もない子どもを、腕に抱き留めて微笑んだ。

「よろしくお願いします、…おかあさん」



花の残り香が、晩春の風にあおられて流れた。





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