その男。

名を、安倍泰成と言う。



かの希代の陰陽師、安倍晴明が六代の孫であり、もちろん彼自身も抜きんでて優れた陰陽師であり、そして………。

(オレの、お師匠様だったりする)

景時は暢気に式神の猫(らしきもの)と戯れている師を横目に見て、はぁぁぁぁ…と深いため息をついた。

(…んだよねぇー……)

「何や景時、陰気くさい。ため息ならよそでつきいな」
「……あ、あのですね、泰成殿」

一応ここはオレの部屋なんですが、と言いたいのをぐっと堪えて、景時は正座で泰成に向き直る。
泰成は、なんや。とでも言いたげに首を傾げて猫を撫でた。

(あ)

何かおかしいと思ったらその猫、尻尾が二本ある。
というか、猫以外にもおかしいところはたくさんあった。景時でなくとも「どこからつっこんでいいのかな〜…あはは…」と後ろ頭を掻くところだ。

「あのー…。望美ちゃんにはちょっかいかけないでくださいって…オレ言いましたよね?」
「ちょっかいなてかけてへんやんか。ちょっと挨拶しに行ったらめでたいことになっとったから、そこはやっぱり言祝ぎをやな…」
「どんな挨拶をしてどんな祝いをしたら、昨日みたいな剣幕で弁慶がうちに来るんですか!弁慶は怒らせるとほんとに怖いんですってぇぇ…!」

景時は思わず頭を抱えてその場に突っ伏した。
先日、泰成が久しぶりに顔を出したと思ったら、あれだけ駄目だと言っていたのに望美に会いに行っていたと言う。
その上とっても楽しそうな笑顔で「いやーおもろいこと思いついてもた」などと言っているのを聞いて、とっさにまずい、と思ったのだ。
そして昨日。弁慶がやって来たので先日の泰成の件だと思い、すぐさまとりあえず謝ると、何故か満面の笑顔で脅された。
何も詳しい事情は知らないのに、あの鬼気迫る笑顔で「吐け。」とか言われた日には、そりゃあ死も覚悟するってものだ。
何とか泰成が望美に会ったらしいことだけ伝えると弁慶は帰っていったが、さすがに不安になって景時も泰成を問い詰めた。
そしてここ数日、自分の師が何をしていたか、事の顛末を知ることになる。

「望美ちゃんに何言ったんですか…」

あんな様子で弁慶がやってくるなんて、何かとんでもないことをこの男はやらかしたに決まっている。
幼少の頃から身にしみてこの師匠の危険性を学んできた景時は、今にも息絶えんばかりの様子で頭と、ついでに胃を押さえた。
当の泰成は素知らぬ顔で、気持ちよさげに床に伸びる猫もどきの顎をくすぐっている。

(あ)

やっぱりおかしいと思ったらその猫、目が三つある。
ちらりとこちらを見た猫もどきが額にある三つ目の目を眠そうに細めて、景時はひっと顔を青くした。
しばらくして泰成は仕方なさげにふっと庭を見やると、ぽつりと呟く。

「何言うたかなぁ…もう覚えてへんわ。確か体難儀やなぁ言うて、もう薬師じゃ手に負えんな、て。そないなこと言うたかな?」
「それだ…っ…」

既に瀕死の景時は、ちょっと泣きそうになりながら呻いた。
昨日の弁慶の笑顔が脳裏によみがえる。と同時に愛しい妹の笑顔が思い出された。
ごめんね朔。お兄ちゃんお前を置いて帰らぬ人になるかもしれない。

「望美ちゃん…それ聞いて勘違いしちゃったんだ…」
「勘違いて、何をやねん」
「決まってるじゃないですか!あああ望美ちゃん、きっと自分のことすごい病だと思ったんだよ…可哀想に…」
「んなわけあるか。ああ言われたら誰かて『いやぁおめでたかしらぁ』てなるわ」
「なりません!!」

景時が少し本気で声を荒げたので、ふざけていた泰成も口をつぐんだ。
泰成は昔景時を初めて見たとき、

「『温厚』という名の筆で『軟弱』と書いたらできあがったようなやつ」

と評したことがあったのだが…その景時が他人に、しかも師匠である自分に怒鳴るとは。
滅多にないことにさすがにまずいと思ったのが、泰成は憮然とした表情を作って寝返りを打った。仰向けになり腹の上に猫もどきを乗せる。

「そらな、ちょっと意地悪したくもなるわ。神子殿思いっきり警戒しはるんやから。あんな世にも胡散臭い男と結婚できて、何で俺はあかんねん」

泰成は直接弁慶と言葉を交わしたことはなかったが、その様々な噂は方々から耳に入れていた。
その顔立ちや立ち居振る舞いは惑わされぬ女性がいないとされるほど美しいだとか、その一方で仏の面をかぶった修羅だとか…。
結果たどり着いた印象は「胡散臭い」だ。
弁慶の方も同じような印象を泰成殿に抱いてるにちがいない、と景時は内心で乾いた確信を抱いた。
景時が未だ何も言わないので、泰成はさらに言い訳を続ける。

「せやかて、神子殿も病やと思て怖なったからすぐ言うてんやろ。軍師殿に」

その言葉に、景時ははたと目を開いて泰成を見た。泰成はその景時の反応が意外で思わず見返す。

「……なんや」
「……泰成殿」
「だからなんや」
「……望美ちゃん、弁慶には何も話してなかったんですよ」
「……………」

今度は、泰成が目を見開いて絶句する番だった。

「…………ほんまか?」
「…本当です」

泰成は珍しく慌てた様子で身を起こす。腹の上でうとうととしていた猫もどきが、転がり落ちそうになって飛び起きた。

「ほな何や…昨日軍師殿が来とったんは、神子殿にちょっかいかけられたこと文句言いに来たんやないんか?」
「昨日弁慶は…その、望美ちゃんの様子がおかしいから、朔に話を聞くつもりで来てたんですよ…」

まさか、泰成もそんな勘違いをしていたとは。
景時もそこに驚いてしどろもどろと答えると、部屋の中には非常に微妙な沈黙が流れる。



「失礼いたします。弁慶殿が参られました」



沈黙を割ったのは、邸の女房の控えめな声だった。
景時と泰成は同じようにはっと顔を上げて、同じようにその顔を見合わせる。
行動したのは泰成が先だった。

「後はよろしゅうな、景時」
「えっ!ちょっ!あっ!」

素早い動作で泰成は立ち上がると猫もどきを抱き上げ、その三つ目の目にふっと息を吹きかけた。
とたん泰成の姿はかき消え、支えるものを失った猫もどきは器用に一回転して着地する。

(あ)

何かおかしいと思ったらその猫もどき、既に「もどき」ではない。目は二つ、尻尾は一本に戻っている。
猫に戻った猫もどきは軽く伸びをして見上げると、「任せた」とでも言いたげな表情で一声鳴いて景時の後ろへ身を隠す。
その行動に、景時は猫の正体を悟った。

「や、泰成殿―…!!」

近づいてくる静かな足音を聞き、諦めながら、景時は何か間違ってる、と思わずにはいられなかった。

(オレが望美ちゃんのことうっかり話しちゃったのがいけなかったのかな…)

というか、まず安倍家に弟子入りしたときに泰成にやたら気に入られてしまったことがそもそもの間違いだった気がする。
歳も近かったから師匠と言っても遊びのようなものだったが、幼い頃から泰成の実力は優れたものだった。
安倍家に縁のない、ましてや才能もなかった景時が、そのような安倍本家の泰成に師事したのは異例のことだ。
それほど気に入られた理由はおそらく、泰成がその鋭すぎる直感で

「こいつ遊べるわ」

と思ったからに違いない。昔から彼はそういう性格だった。
修行という名の危険な遊びに付き合わされて振り回された。
面白がって、初めての式神にあえてサンショウウオをくれたのも泰成だった。

(あれはあれで可愛かったし、今じゃお気に入りだからいいんだけどね〜…)


────とにかく、何か間違ってる。







「景時、昨日はすみませんでしたね」
  「い、いや〜…お、オレは別に…あはは〜」

目の前で腰を下ろす弁慶の笑顔に、景時も思わず正座で視線を泳がす。

笑顔が。笑顔が昨日のままだよ弁慶。

弁慶も景時も微笑んでいるのに、その構図はどう見ても蛇とそれに睨まれた蛙の図にしか見えない。
腰を下ろして自分も綺麗に正座した弁慶は、空恐ろしい笑顔のまま切り出した。

「今日の用件は、直接君にというわけではないんですが…おや」

喋り出しかけた弁慶の視線が、ふと景時の後ろからのぞいていた猫に止まる。
その視線に気付いた景時はひっと体をこわばらせ、視線を受けた猫────泰成も、思わずびくりと尾を震わせた。

「景時、それは…?」
「あ、ああああああこここの猫ね!!ちょ、ちょっとそのなんて言うかほら…あ、あのし、知り合い?うんそう知り合いからさ!しばらく預かってくれって頼まれちゃってさ〜あは、あはは〜…!」

(阿呆景時、動揺しすぎや)

動揺のあまり口調だけではなく動きまでおかしくなる景時に内心でため息しながら、泰成はせめて猫らしくと一声、「ナァ」と鳴いてみせる。
弁慶は数秒泰成を見つめた後、完璧な微笑みを浮かべて呟いた。

「そうですか…猫、ね。」

最後の、ね、の瞬間に部屋の温度がぐっと下がる。これは絶対気のせいなんかじゃない、と景時は思った。
そうこうしている内に弁慶は猫から視線を外し、本題に入っていく。

「今日はね、言伝を頼みたくて来たんですよ。あちらの本宅へ伺っても良かったんですが、さすがに不躾ですし…それにきっと捕まらないでしょうからね。君なら伝えておいてくれるでしょう、景時」
「あ、え、うん、な、何をかな〜…」
「……安倍、泰成殿に」

にっこりと笑顔を貼りつけてあえてゆっくり喋る弁慶の背後に、黒い何かがぶわりと広がるのを景時は確かに見た。

(この圧迫感……政子様以上か……!!)

背筋に冷たいものが下る。

「二度と、望美さんに近づくな。…と、伝えておいてもらえますか」

ごごごご…と地響きを立てそうな勢いで弁慶の背後の黒い何かが迫ってきて、泰成は全身の毛を逆立てて景時の後ろに逃げ込んだ。
矢面にさせられた景時は、その場に凍りついたままだらだらと冷や汗を流す。

「それから。どういうつもりであんな悪ふざけをしたのかは知りませんが…心身ともにもっとも安静にしておかないといけない時期に、あれほどまで彼女を怖がらせて不用意に心を乱させるなんて…。もし彼女に何かあれば」

つ、と、弁慶は言葉を切る。
一瞬貼りつけていた笑顔が消えて、すいと目が細められた。
その、目があっただけで凍りついてしまいそうな瞳で、景時を見据える。否、正しくは…景時の後ろにいる、『猫』を。
視線が矢のように胃の辺りを貫通した気がして、景時は凍りつく。


「……覚悟、しておいて下さいと。伝えておいて下さい…?」


最後に今までで極上の笑顔を浮かべると、弁慶は音もなく退出していった。







「っかぁ……あれはあかんわ。人の子が放ってええ気とちゃう」

弁慶が出て行って、しばらく。
様子を伺っていた泰成は、安全を確かめた瞬間人間の姿に戻った。
大げさに肩をさすって首を振るその足下に、また三つ目二尾に戻った猫もどきが喉を鳴らしてすり寄る。

「初めて面と向かって見たけど噂以上やなぁ、綺っ麗な顔や。…でもあの目はあかん、どない見てもこっち気付いてはったで。お前よぉあんなんと一緒に戦……景時?」

泰成は景時が一つも言葉を発さないのに気付いて、ふと振り返った。
景時は正座も崩さないまま、その場に凍りついている。

「……こら、景時。どないしてん」
「……っお」
「お?」

泰成が奇妙な物を見るように目を細めると、景時はぎくしゃくとした動きで腹部を押さえる。
胃の辺り、ちょうど先ほど、弁慶の視線が貫通したと思われる部分。
景時はそこに穴が空いていないことを確かめて、その場に崩れ落ちる。

「オレ…生きてますよね…!」
「死んでたら口きけへんわ、阿呆」

何を言うか、と言いたげに、呆れたため息をついて泰成は肩を落とした。その横で景時は「オレ生きてるよー…」と呟きながら涙をこぼしている。
それをとりあえずは無視して、泰成は腕を組んだ。

「………しかし、そうか…」

思案するように、じっと庭先の植え込みを見つめる。
しばらく目を細めて微動だにせずに考え込んでいたが、ある瞬間突然腹を決めたように振り返って、かがみ込んだ。
足下にいた猫もどきを抱き上げて、先ほどと同じようにふっと息をかける。
すると今度は泰成が猫になるのではなく、猫もどきは一枚の式符に戻ってしまった。

「景時、出てくるわ」

泰成は懐に式符を差し込むと、さっさと踵を返して部屋を出て行く。
床に頭をすりつけて泣いていた景時は、数秒反応が遅れたが、ややあって顔を上げた。

「………え?」

(……『出てくる』?)

「ど、どこにっ!!」

がばりと起き上がって、廊に転がり出る。
しかし時既に遅し、そこには泰成の影も形ももはや無い。
景時のこめかみにひやりと嫌な汗が伝った。

(まさか…また、泰成殿…)


その日、幾度目か聞こえてきた邸の主の悲痛な声に、事情を伺い知る古参の舎人らが顔を見合わせて深く同情した、とか。












いつも通りの午後。
いつも通りの道並み。
今日も一日天気が良かった。



「ふわぁー、気持ちいー…」

望美は濡れ縁に腰を下ろし、草履を脱いだ裸足を差し込む日射しに晒した。
今日は風もよく吹いているから、汗ばむほどの陽気だが清々しい。
ふうと息をついて顔をあげると、今朝干した洗濯物が風に揺れている。
干したのは望美ではなく弁慶だ。無理をしてややが流れてしまっては大変、と、今朝から家事をさせてもらえない。
洗濯物といえば、今日は弁慶は景時の邸に行ってしまった。
朔には自分の口から子どものことを伝えたかったからついて行くと言ったのに、案の定弁慶に頑なに反対されたので留守番中なのだ。
しかししばらくの間隠し事をして心配をかけていた手前、強く言うこともできずに大人しく家に留まった望美だった。
が。

(…、ちょっと過保護すぎる気がする)

たまにつわりが来る以外は至って体調は普通な望美にとって、その弁慶の態度は少し心配し過ぎなようにもに思えた。
そりゃあ走り回ったりの無茶は止められるだろうけれど、普通に料理をしたり洗い物をしたりの動作は大丈夫なんじゃないだろうか、と望美は思うのだが、身近に妊婦さんがいたことがないので自信はない。
だから不本意ながら、言われたとおりじっとしている。
暇にまかせて足下に生える草が風に揺れるのを見ながら、望美はぼんやりと考えた。

(なんかちょっと…意外、かも)

なんというか、いつも何事にも動じない、落ち着いた人だから。子どもができたからといって、ここまで過保護というか心配性というか、そういう風になるとは思っていなかったのだ。
そう思うと、何だかとても、むず痒いようなくすぐったいような妙な気持ちになった。
放り出していた脚をもぞもぞと引き寄せて、膝を抱く。

(…やばい)

今自分の顔を鏡で見たら、絶対に緩んだ顔をしている自信があった。
じっと前を見つめたまま、誰も見ていないが気恥ずかしくて膝頭に緩んだ口元を隠すように埋める。
でもやっぱり、意外だけどそういう変化は────

「嬉しい…よねぇ…」



「なんや、惚気かいな」



「っっひゃあ!!」

突然至近距離からかけられた声に、望美は飛び上がりそうなほど驚いた。
思わず変な声を出してしまった口を押さえ、辺りを見回す。

(今の…独特のイントネーションは…)

かさっ

「!」

望美の視線の先で、川手の方にある茂みが小さく揺れた。
それを割って、ちいさな猫が一匹、姿を現した。

「え、猫…?」

予想とは違うものの出現に、望美は思わず拍子抜けする。
しかしそれもつかの間、猫はまっすぐに望美の前まで歩いてくると、用心深く辺りを見回すようにして────

「軍師殿はまだ帰ってきてへんな」
「…………」



────喋った。



(………喋った。)

あまりに予想外の展開に、望美の思考回路と体がかちんと固まる。
猫はその様子を見て一瞬いやに人間くさくほくそ笑むと、その場でくるんと宙返りをうって見せた。

「えっ……あ!」

次の瞬間、そこにあったのは既に猫ではなく。

「お加減いかがかな、神子殿。いつも裏から失礼するわ」
「あ────あなた…!」

ゆらりと長身の、白を基調とした色目の狩衣を着た男だった。
呆然としている望美に、細い目をさらに細めてにっこりと微笑みかける。望美はすぐにはっと我に返った。

「え、えーと…やすなりさん?」
「なんや、名前教えてくれたんか?あの軍師殿が、意外やな」

泰成は器用に片眉を跳ね上げると、「あかん、はよせな帰って来やはる」と呟いて望美の隣に腰掛ける。

「改めるのも今更やけど、名前くらいな。俺は安倍泰成。梶原景時と昔なじみで、神子殿のことはあいつから聞いたんや。で…」
「景時さん?ああ、安倍……やっぱり陰陽師さんなんですね。あのお祝い、ありがとうございました」
「………」

名乗ったなり、そのまま言葉を継ごうとしていた泰成は、望美に礼を告げられて面食らったように口ごもる。
ちょっと望美を覗き込むようにして問うた。

「…神子殿、怒ってはらへんのか?えらい勘違いさせてしもてんやろ、俺」

まずは、そのことを謝りに来た。
自分のちょっとした悪戯心で、予想外に辛い思いをさせたかも知れない。
人をからかうのは好きだし自分に楯突く者にはいくらでも非情になれるが、悪意のない相手を理不尽に傷つけるのは彼の趣味ではないのだ。
弁慶からは逃げ出してきたわけだが、本人からの叱責は覚悟してきた────はずなのに、当の望美はきょとんとした顔をしている。
それもそのはず。望美は望美で、泰成は初めから懐妊のことを教えてくれていたのに、自分が勘違いしてしまったと思っているからだ。

「え?怒るなんてそんな、私が勝手に勘違いしただけですし…」


「…………」
「…………」


お互い微妙な表情で顔を見合わせて沈黙する。
しかし。

(…あかん、こんな見つめおうてるとこ見られてもたら今度こそ殺されてまう)

先ほど弁慶から向けられた凍るような視線を思い出し背筋を寒くさせた泰成が、先に気を取り直して頭を下げた。

「いや、あれは俺に非があるんや。軍師殿にすぐ相談するやろ思て、勘違いさせるような言い方してもた。悪ふざけが過ぎたわ」
「いえ、え?や、あー…」

(……あれ、わざとだったわけ…)

真っ向から頭を下げられて慌てて手を振りかけた望美だったが、思いがけない泰成の告白に上げた手を止める。
自分が「神子」と呼ばれただけで警戒しすぎたために勘違いしたのだ、と思っていたのに、あれがわざとだった────となると。

(ここってやっぱり怒るところなのかなー…)

上げかけた手を下ろすことも出来ずに、望美は半笑いで明後日の方向を向いた。
確かに普通なら怒るべきところなのだろうが、昨日の弁慶の剣幕がすごくて毒気が抜かれたというか、とりあえず今更怒りも湧いてこない。それに。

「ほんに、すまんかったな。五日間も怖かったやろ」

髪と同じ墨色の泰成の目は、内心の感情を余り移さないが、初めて目を合わせたときのような空恐ろしい感じはもうしない。
本当に、悪いと思ってくれているのがわかる。

「────……」

だから、望美はふっと微笑んだ。
肩の力を抜いて、行き場をなくしていた手を膝の上にすとんと落とす。

「いいですよ。…怒ってませんから」

頭を下げていた泰成が、伺うように少しだけ目線を上げた。
望美は笑みを深めて言葉を繋ぐ。

「それにあのお祝い、嬉しかったですから。それで許します」

無意識なのか、そっと腹部に手を当てて微笑んだ。
その仕草に言葉には出来ない喜びの気配が伝わってきて、自然と綻んだ口元をそのまま、泰成はもう一度謝る代わり、望美に礼を言った。

「有り難い。そう言ってもらえると、こっちとしても気が楽やわ」

そうして、突然気を取り直したようにぱん、と手を打って擦り合わせる。

「ほんまやったらあの式神が祝いのつもりやってんけどな。怖がらせた分の詫びもせなな」

唐突な泰成の申し出に、望美は、え?、と目を丸くする。

「いいですよそんなの!気にしないでくださいって…」
「ええねんええねん、大したもんやあらへん。俺の気ぃ晴らしたいだけやからほら、手ぇ出し」
「手?あ、はい」

あたふたとしていた望美だったが、促すように手を差し出されると釣られて、犬のお手よろしく手を差し出してしまう。
泰成は望美の手を取り、自分の右手の人差し指と中指にふっと息を吹きかけた。
そしてその指を望美の手のひらにそっと滑らせる。

「あ…?」
「この印はな、産のときに神子殿とお子を守るものや。危なくなってもこのまじないが助けてくれよる」

言いながら滑らせる指の跡が、ほのかに光って手のひらに染みこむように消えていく。
望美にはまったくわからなかったが、なにやらそれは文字のように見えた。
気のせいかも知れないが、手のひらからじんわりと力が湧いてくるような、不思議な感覚がする。
望美がぼうっとその様子を見ているうちに、まじないが終わったのか泰成は望美の手をそっと握らせるようにして手を離した。
顔を上げると、満足げに微笑んでいる。

「神子殿は必ず無事に、元気なおややをお産みになる。これは安倍泰成の言霊や。誰にでもやるもんちゃうで」
「ことだま…」

泰成は茶化したように肩を竦めた。
望美はまじないの宿った手をじっと見つめて、きゅっと胸に抱くようにする。

「ありがとうございます…。今一番嬉しいです、それが」

柔らかに明るい光が、望美を包んで大きくふわりと広がるのを泰成は見た。












(ええ『気』やったなぁ…)

こつんと、沓が蹴った小石を、本能なのか横に添って歩いていた猫が追いかけて走っていく。
しかしそれが生き物でないとわかると、また泰成の横へ戻ってきた。
黄昏の帰途につきながら、泰成は先ほどを思い出して一瞬、まばゆいものを見るときのように目を細める。
並外れた陰陽師としての力を持つ泰成には、多くの人間の気が見える。
しかし身ごもった母親の気ほど美しいものは他にない。
龍神の見初めた少女の気は、内に宿った新しい魂の輝きと共鳴して太陽の光輪のように輝いた。
光はどこまでも、その深みを増していくのだろう。
笑みを深めた泰成はふと、もうしばらくすると色付き始めるだろう西の空に目をやる。

「そや、嵐山でも寄ってこか。星の方もまだ知りはらへんやろ」

安倍家と星の一族の家は、いにしえより縁が深い。
今でも交流があるが、最近のあの家の者は「何も神子様のお役に立てない」と嘆いてばかりだった。
懐妊の知らせを持って行ってやれば、一際喜んでここぞとばかりにまじないの品を用意することだろう。
その様を思い浮かべた泰成は、満足げに一人頷く。

「良きかな良きかな。さ、行こか」

足下の猫に一声かけると、猫は言葉がわかったかのように「ナァ」と返事をして、歩みを速めた泰成の後をついて行くのだった。




〜END〜





こりゃまた……長くなりました…(遠い目)
でも書きたいこと書ききれたので満足しています。この話はキリリクなんですが、リクエスト内容は弁望で「動揺する弁慶さん」でした。 このリクを見た瞬間藤宮のテンションが上がった…!!(いじめる気まんまん)
げへげへあの弁慶さんをどうやって動揺させようかしらと考えたときぽっと出てきたのが、泰成さんでした。弁慶さんがやり込められてしまうくらいの強者を出そうと思って。 結果、弁慶さんもシャア並みのプレッシャーを放つ強者だったので引き分けた感じですが。
初めての創作キャラで心配だったのですが、気に入ってくださった方もいて安心しました。 泰成さんは三十路前後の体は大人頭脳は悪ガキな陰陽師さんです。
イロモノにお付き合い下さった方、ありがとうございました!笑
そしてリクエスト下さった桜花様もありがとうございましたー!!(*´v`*)

この作品の続編が、2007年度弁誕の「Dear」になります。少しだけリンクしているつもりなので、良ければ続けて読んでやってくださいませ。





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