平泉遁走曲 1 「地獄に堕ちろぉっ!!」 全ての始まりは、風呂場に響いたその怒声だった──── 「べーんけー…」 からりと障子の開いた音に読んでいた本から顔を上げ、弁慶は「げ」と呻いて顔をしかめた。 「何ですか将臣くんその血みどろ具合。軽くヒきますよ」 「望美にやられたんだよちょっと手当てしてくれねぇ?」 「え、その出血量くたばった方が早くないですか?」 「ははは冗談になってねぇから!マジ頼む」 「仕方ないですね…まあそこに横になって下さい」 治療道具を取りに行きながら弁慶は尋ねる。 「望美さんにやられたって、彼女に何したんですか?返答次第によってはとどめ刺しますよ」 「いやさっき風呂場で望美と鉢合わせてさぁ…ってちょっと待て偶然偶然だから」 弁慶はそっと薙刀に伸ばした手を舌打ちしつつ薬に戻す。 「ちっ…さすがメガネの兄ですね」 「いや俺もさすがに春も夏も秋も冬もはちょっとな。ってかあいつ手拭いも使わずにまっ裸で入って来やがってどんだけ漢前なんだって話だろ?」 「傷を見せて下さいえぐりますから」 「待て待て見たのは不可抗力!俺が入ってんのに確認しないで来たあいつも悪い!だからな、俺はその場を何とか和まそうとしたわけだ」 「だから何したんですか?」 「『あっれぇお前ちょっと腹ヤバいんじゃねぇ?』って言った」 「そりゃ殺られますね」 「何だよじゃあお前ならどうすんだよ」 「いただきます。」 「それお前の方が殺られるから」 軽く流して弁慶は将臣の傷を診る。 「うっわこの傷、確実に急所をはずしてじわじわ死ねるようにしてありますよ。さすが望美さんですね」 「真面目に怖ぇそれ。あいつ風呂場でも剣装備ってゴルゴだよな」 ────そのとき、たたたっと廊下から足音が聞こえてきた。 将臣相手に完全な技をキメた後しっかり入浴を済ませた望美は、ぷんぷんと頬をふくらませながらあるところに向かっていた。 「まったく将臣くんってばあたしだって女の子なのにデリカシーのかけらも無いんだから!しかも裸見といて!普通腹ヤベぇとか言う!?」 女の子は普通、問答無用でエグい剣技をかけたりしないとかいう正論は当然却下される。 たかたかと廊下を歩いて、望美は目的の部屋の障子をスパンッと開いた。 「べんけーさぁんいますー!?」 「あ。」 障子が開かれた瞬間、弁慶はいっそ清々しいまでの速さで将臣の治療を放棄し、部屋の片隅へ避難した。 治療中で仰向けに寝ころんでいた将臣は、障子を開いた望美の姿をみて「あ。」と呟いたままフリーズする。 「ん?」 ふ、と望美の目が床に転がっている将臣に向けられて… ────次の瞬間彼女の姿はそこになかった。 将臣はぱちりと瞬きする。 あれぇ、望美どこ行… 「沈め!永遠にな!!」 ご、と何とも形容しがたい音がして、衝撃に梁からぱらぱらと埃が落ちる。 軽く地を蹴った望美の肘が、将臣のほぼ真上から顔面にヒットしたのだ。 うわーあと思っている弁慶の目の前で、たぶんとどめの一撃をかました望美はゆらりと立ち上がった。 その瞳にじわりと涙が浮かぶ。 「将臣くんのばかぁぁっ!嫌い!!」 え、今すごいドス効いた感じで「沈め!」とか言ってましたよね、キャラ違いませんか…と内心呟く弁慶には目もくれず、望美は涙をきらめかせつつ再び廊下に駆けだしていく。 ……………… その足音に耳を澄ませて、十分安全圏に入ったと思われる頃にやっと、弁慶はそろりと将臣に近づいた。 「将臣くん…死にました?」 「お、弁慶?生きてる生きてる、俺生きてる」 軽く手を挙げて答える将臣。 弁慶は思いっきり眉をしかめた。 「ありえませんね、どうして生きてるんですか…。僕上から落ちてきた肘打ちが顔面に入るの初めて見ましたよ」 「俺も初めて見たぜ!すげぇ迫力だな!」 「そりゃその位置で見てたらね。ってか顔面へこんでますよ」 「マジ!?そいえばさっきから目が見えないんだよな!」 「あー…頭が、ちょっと…」 イカレたかも知れませんね。 目が見えないならちょうど良いと、弁慶が将臣を庭に蹴り落とそうとした時。 廊下を再び、こちらへ向かってくる音が聞こえてきた。 はっと身構えて弁慶は入り口を見つめる。 するとしばらくして、そこにゆらりと一つの影が浮かび上がり…すっと、戸が開いた。 「すいません、弁慶さん。兄さんがここに…」 「いませんよ?」 譲が障子を開けた瞬間、手近にあった白い布を将臣の顔にかけた弁慶はにっこりと笑った。 「こらー弁慶、これじゃ俺死んだみたいじゃねぇ?」 「どうしたんですか譲くん。将臣くんに何か用事が?」 「いえ、さっき先輩と廊下ですれ違ったんですが…何か『将臣くんがぁ…』って言って…泣いてるみたいだったので。ってか後ろのソレ兄さんですよね?」 「ふふ、事情はわかりましたけど譲くん、君がそんなに殺気振りまくまでもなく将臣くんヤバい感じですよ?」 「べーんけー、顔ってどうやったら戻る?ふんっ!てやったら気合いで戻るかな気合いで」 「生きてることには変わりありません。先輩を泣かせた輩に須く死を見せるのが俺の使命ですから」 「何の信仰ですかそれは。まあ将臣くんがどうなろうと知ったこっちゃありませんけどね。どうぞお好きに」 「ふんっ!ふんっ!何か違うなー…。あ!ひっひっふーとかか!ひっひっふー」 「いえ、弁慶さんも同罪です。」 「………は?」 「ひっひっふー。ひっひっふー。ひっひっふーふんっ!」 ぽんっ 「弁慶さんも兄さんをかくまって先輩を泣かせたみたいですから。等しく死の権利があるんですよ…」 「ちょ、ちょっと待ちなさいメガネ!いや譲くん!僕は別に…!」 「お、お?戻った?戻ったくさくねぇ?俺天才!」 「覚悟を決めて下さい…!」 にや…と譲の口元が歪む。 (くっ!この変態メガネが!) 弁慶がやむをえず壁の薙刀に手を伸ばした時。 「弁慶戻ったぜ!むしろ前よりちょっと鼻高くなってねぇ!?」 がばりと将臣が体を起こした。 血走った譲の目がぎらりとそちらに向く。 「お?何してんだ譲グッディー!!グッディーってわかるかグッドイーブニングの略なんだぜ俺天才!」 「………」 音もなく譲の手が弓矢に伸びる。 とりあえず標的から外れた弁慶はこの場からどう逃れるか考えはじめた。 ────その時。 彼の耳が聞き慣れた音を感じ取った。 たたた… 「!!」 再び聞こえてきたあの足音に。 どか、どかっ 弁慶は血の宴を繰り広げようとしている有川兄弟を迷わず庭に蹴り落とし、スパンッと障子を閉めた。 「弁慶さんちょっと忘れるところだった!」 またまたスパンッと障子を開いて入ってきた望美を、弁慶は笑顔で迎える。 将臣がいた形跡さえも消し去った早業はさすがと言うべきか。 望美はぎろりと部屋を見回した。 「あの虫は」 「駆除しました。」 「うんそうだよね!さすが弁慶さん!」 めちゃくちゃいい笑顔を作って、望美は部屋に入ってくる。 そしてすとんと弁慶の前に腰を下ろした。 「忘れるところだった、とは?」 「そうなんです!さっきその用事で来たのに、弁慶さんの部屋にでっかい虫がいたからびっくりしちゃって!」 「そうですね僕もびっくりしちゃいました。色々と。」 「それでね、弁慶さんに頼み事があるんですけど…」 「痩せる薬…ですか?」 「そうなんです。将臣くんに言われた時はそんなに気にしてなかったんですけど」 (そんなに気にしてなくてアレなんですかすごいですね) 「やっぱり最近ちょっと太ったかなぁ…って。そういう薬ってやっぱりありませんか?」 ちらりと見上げられて、弁慶は首をひねる。 ここで無いと言えば命も危ないかも知れない。 「そうですね…。痩せる薬というのはありませんが、『なりたい自分になれる薬』というのなら、ありますよ?」 「『なりたい自分になれる薬』?」 「そうです。僕も試したことは無いんですけどね…」 そういって弁慶は、棚の奥から小さな小瓶を取り出した。 「これ?」 「そうです。何でも大陸から渡ってきた秘薬だとか。これを飲んでなりたい自分を思い描くと、その通りになれるそうです」 「え!それすげぇ!」 「ふふふ君の食い付きもすごいですよ。」 「えー飲む飲む!弁慶さん!それちょっとだけ頂けませんか!」 「副作用とか全く気にする気配無しですね、漢前ですよ望美さん」 「え?なに?」 「いいえ。では…これくらい、ね。部屋に帰って飲んでみて下さい」 「はぁい!ありがとー弁慶さん!」 「っていうかこれ、一回分なのかな」 部屋に帰ってさっそく瓶を前にした望美は、改めて首を傾げた。 瓶の中でちゃぷんと揺れる液体は無色透明で、半端に緑色だったりするよりも胡散臭い。 きゅぽんと蓋を開けてにおいを嗅いでみても、何のにおいもしなかった。 瓶と見つめ合うことしばし。 「ま、いっか。」 あっさりと、望美は瓶の中身を飲み干した。 弁慶印の薬に怯えているようでは源氏の神子はやってられないのである。 しかし。 〜数分後〜 「…ちょっと。」 望美は半眼で呻いた。 その外見は、何の変わりもない今までの彼女のままだ。 何か変化があったようには見えない。 そろそろ、ボンとかキュッとかの自分的理想バディを思い浮かべ続けるのも飽きた。 「まさかあのホラ吹き薬師…騙した…?」 ────潰す。 まさかという思いが形を作った瞬間に望美は剣を手にして立ち上がっていた。 疑わしきを迷わず罰せないようでは政子feat.荼吉尼天の相手はできないのである。 ふらりと望美が廊下に出た時… どんっ ほとんど半眼で歩いていたからか、頭から思いっきり何かにつっこんだ。 「神子様…っ!?申し訳ありません、お怪我はありませんか?」 「ん…銀…?」 どうやらつっこんだのはちょうど廊下を歩いていた銀だったらしい。 彼は望美の顔を見ると、訝しげに眉をひそめた。 「神子様…どこか具合でもお悪いのでしょうか?」 「え…?別に…何で?」 「お顔の色が…」 顔色? そういわれて気がついた。 そういえばさっきから何となく、顔が熱いような気がする。 のぼせたような感覚…。 何これエロい薬とかだったらどうしよう死にたいのかなあの軍師、とそこまで考えた時… 「っ!神子様!」 望美の体がふらりと傾いだ。 とっさに銀がその体を支えようと手を伸ばした、瞬間。 はらり。 廊下に落ちた物があって。 きらり。 望美の瞳が翠の光を…放った。 |