じりじりと照りつける太陽。 むせかえるほどに濃い潮の香り。 叫ぶように短い命を発散する蝉の声。 深緑と紺碧の神域、熊野にて、白龍の神子と八葉一行は──── ──── ぶっちゃけたところ、暇だった。 熊野狂想曲 〜 ク マ ノ カ プ リ チ オ 〜 「それマジかよ!?」 「せ、先輩…本気で、…ですか?」 「本気でだよ!あ、譲くんバカにしてるでしょ!」 「い、いえ…そういうわけじゃ…」 夏の日の昼下がり。 勝浦にある、とある宿の一室からは賑やかな声が上がっていた。 「譲じゃなくても本気かって思うだろ!お前岡ティーってあの中3の時の担任だろ?本気で好きだったって?」 「だってすごい良い先生だったじゃない!」 「確かに良い先生でしたけど…もう40歳近かった…ですよね?」 「そうだよ、39だった。でもあの頃は真剣に好きだったの!」 望美と将臣と譲の現代組が話に花を咲かせている横で、それを耳にした九郎が 「景時、『おかてぃ』、…とは、何のことだ?」 と小声で景時に聞く。景時は頭をひねって 「いやー、オレもちょっと…」 と思案する。 しかしやたらと盛り上がっている幼なじみ三人以外、「岡ティー」が彼らの中学校の教師の愛称であることや、それが「岡田ティーチャー」の略であることなど誰も知りようもない。 そしてその横で朔が (相手が親子ほど年上でも…望美の選んだ人なら、私応援するわ) と熱い決意を固めていたり、 敦盛は部屋の隅っこで、どこからか迷い込んだ猫の背中をやたら嬉しそうな顔をして撫でていたり、 リズヴァーンが望美達の会話に「先生」「好き」という言葉が出てくるたびにぴくっ、ぴくっ、と反応していたり─── 熊野川の奔流により閉ざされてしまった本宮への道が開けるまでの時間を、神子殿一行はこうして思い思いに過ごしていたのだった。 つまりは、望美の過去の恋愛話で盛り上がっているのだ。 こういった話を三人でしたことは、実は向こうにいた頃にはあまりなかった。 望美が誰かと付き合っているとかそんな話は将臣も譲も耳にしたことがなかったから、てっきり望美はまだその手のことに興味が少ないのかと思っていた。 しかし暇に任せてつついてみると、思いがけない話が聞けるものだ。 まさか初めて真面目に好きになった人が、24歳も年上の、しかも妻子持ちで、さらに中学の担任だった教師だというのだから…。 「ありえねー!お前、そういう面白い話はその時に話せよ!」 「やだよ、あの頃言ってたら将臣くん絶対爆笑するか信じなかったかどっちかだもん」 「ははっ、確かにな!」 「先輩…そこまで年上趣味だったなんて…」 ぼそりと呟く譲がどんよりとした暗いオーラを放っていることにも気づかず、望美はあははと笑って手を振る。 「まさか、そんなことないよ譲くん。別に私年上趣味ってわけじゃ…」 そのとき。 廊下の方から、この部屋に向かってくる足音が聞こえてきた。 一つは微かに、衣擦れの音だけを響かせて、 一つは軽快にすたすたと、やや早足で。 日射しを避けるために降ろしていた御簾がかさりと上がった。 「えらく賑やかだね。何の話?」 「ヒノエくん!」 「ただいま姫君。オレがいなくて寂しかっただろ?」 部屋に入って来るなりヒノエは、入り口近くに座っていた望美の髪を一房取り口づけようとする。 しかしその行為に望美が赤面するより先に、ヒノエの背中に肘撃ちを食らわした人物がいた。 ゴッ 「こらこらヒノエ、君がそんなところに立っていると御簾が下げられなくて迷惑でしょう?さっさと中に入って下さい」 「あ、弁慶さんも!」 「…っ…ちょ…こらおっさん、今すげぇ鈍い音したんだけど…」 「ただいま帰りました、望美さん。何も変わったことはありませんね?」 「はい、大丈夫です!お帰りなさい、二人とも!」 望美に向ける笑顔の裏で絶妙な牽制をしあおうとする二人だったが、それに全く気づいていない望美自身から無邪気な「お帰りなさい」を言われてしまっては、大人しく輪の中に腰を下ろすしかなかった。 ────二人がしっかりと望美の両サイドを確保したのを見て、敦盛がこっそりため息をついたのにも望美はもちろん気づいていない。 「町中は相変わらず、ですね。本宮に渡れない人流れがここでせき止められて、人は多くなっていますが…これと言った情報は得られませんでした」 譲が全員分の湯飲みに冷や水を入れて、朔がそれを配って回っている。 本宮への道が閉ざされている今、町中へ情報収集へ出かけていたヒノエと弁慶の帰宅で一同は思い思いにくつろいでいた状態から身を起こし、二人の報告に耳を傾けた。 その成果は芳しくないものであったが…。 「法王もあのまま足止め状態だね。管弦に白拍子、退屈はしてないみたいだけど…こうして待ってたって、川が退くかどうか」 でも…、と、ヒノエは立てた片膝に頬杖をついて隣に座る望美の顔を覗きこむ。 「オレとしては、こうして姫君とゆっくり過ごせる時間が続くのは喜ばしい限りかな。戦のことばかり考えてちゃ、花の笑顔も色褪せてしまうからね」 「ひ、ヒノエく…」 綺麗な作りの緋色の瞳が、目の前でにっこりと微笑むのを見て望美は思わず赤面した。 その上、本気か冗談かわからないとは言っても口説き文句めいた言葉をかけられては、動揺するなと言う方が無理な話だ。 しかし。 ゴッ 「?」 背後からどこかで聞いたことのある鈍い音が聞こえたような気がして、望美はいったんヒノエから目をそらし後ろを振り向く。 だがそこには微かな風に揺れる御簾が下がっているだけで、「ゴッ」 というような鈍い音をさせるような物は何もない。 気のせいかな…と顔を戻すと、何故かヒノエが背中を押さえてうなだれていた。 「あ、あれ?ヒノエくんどうかしたの?」 「なんでもありませんよ望美さん。自分の放った台詞のサムさにちょっぴり絶望してるだけです。さあ気にしないで」 「えっ、え?え?」 ヒノエではなく弁慶が笑顔で答えたが、どう見ても何でもなさそうな様子ではない。 弁慶とヒノエ、二人に挟まれている望美には何が起こったのか見えなかったが、それ以外の人間には見えていた。 ヒノエが望美に微笑みかけた瞬間、弁慶がすかさず後ろ手で薙刀を握り、望美の後ろからヒノエの背中を柄で突いたのが。 望美に一切気取らせず微笑みを絶やさないまま、しかも先ほど肘撃ちを食らわせた同じ箇所にノールックで強烈な突きを打ち込んでみせる弁慶の手腕に、他の八葉たちは恐怖すら覚える。 (ヒ、ヒノエ…その、大丈夫か…?) (んのおっさん…いつか殺す…っ) 「そういえば望美さん、さっきは何の話をしていたんですか?ずいぶん楽しそうでしたけど」 小声で話す敦盛の声とヒノエのうめき声を隠すように、弁慶はことさら明るい声でさらりと会話をすり替えた。 さっき?と一瞬疑問符を浮かべる望美に変わって、将臣が合いの手を入れる。 「ああ、面白い話してたからな」 「面白い話?」 「そ。望美の昔好きだった男の話!」 その言葉に。 今まで一度も揺るがなかった弁慶の笑顔が一瞬凍り付き、やっと痛みから回復して顔を上げようとしていたヒノエの動きが止まる。 「望美さんの…」 「好きだった、男…?」 「ちょ、ちょっと将臣くん!」 さっき3人で話していたときは照れた様子もなかったのに、何故か望美は慌てて止めようとした。 赤面した望美の視線が、焦ったように一瞬 『彼』 に向けられたのに気づいたのは、恐らく望美の真正面に座っていた将臣だけだっただろう。 (あ?…おいおいまさか…) さっきまでは平然と出来た話。 なのに、今はしてほしくないその話。 その内容は昔の恋愛話で、さっきまでと違うのは部屋にいる人間が二人、増えたということ。 となれば────。 (…はーん……わっかりやすいやつ) 将臣は望美の動揺の原因に気づいてにやりと笑う。 そしてわざとらしく声を大きくした。 「実はなー、望美が親父シュミだったって話でー!」 「将臣くんーっ!!」 泣きそうな声を上げて望美は将臣を制止するが、時既に遅し。 望美の過去の想い人、と聞いて、がっつり食い付いた約2名が離れるわけもない。 ───望美はこの後、源氏の軍師と熊野の別当の交渉術を身をもって体験し、一から十まで吐かされることになるのだった。 |