(弁慶は出し抜けた────)

真昼間よりは日射しも和らぎ、地面に落ちる影も輪郭を緩めてきている。
誰よりも先に誘い込むことが出来た望美と二人歩きながら、ヒノエは思案していた。

(────わけはない、…か。あいつがあんなにあっさり引き下がるなんておかしい。ここから仕掛けてくるはずだ)

まああっちがどう来たところで、みすみす姫君を渡す気なんて無いけどね…と、表向きは変えない表情の裏で不敵な笑みを浮かべる。
それよりも気になるのはあれから一切顔を見せないあの親父の方だが……。

「ねぇ…ヒノエくん?」
「っ…、…なんだい?姫君」

歩きながら思索にふけっていたヒノエは、望美の声に我に返って視線を動かした。
隣に望美がいるというのに、一瞬でも他の人間────しかも男二人────に気を取られていた自分に半ば呆れる。
しかしヒノエの気が逸れていたのは一瞬のことだったようで、望美はそれに気づいていないようにヒノエを見上げた。

「あのね、だいぶ勝浦から離れてるけど…今から行くところって、山の方にあるの?」
「そうだよ、海に近い土にはあまり花は咲かないからね」
「ここからまだ先?遠い?」

続く望美の質問に、ヒノエは「そう遠くは…」と言いかけてやめた。
そんなに歩いたつもりもなかったが、もしかして疲れたのだろうかと思って望美の顔を伺う。
その表情には、別段疲労の色は見えないが────。

「どうしたの。もしかして、疲れた?」

少し背をかがめて顔を覗きこむようにして問うと、案の定望美は小さく首を横に振った。
だがその代わりに、今から進んで行く先の道を指さす。

「ううん、そうじゃないくてね。…あれ」
「『あれ』?」

ヒノエは背を伸ばして指し示された方向を見た。
歩き慣れたはずの道の脇に……

「……げ。」

……見慣れない物がある。
ヒノエは一瞬望美の前だということも忘れて、思いっきり顔をしかめた。
そこにあったのは、一見すれば何の変哲もない木の立て板だった。
こういった山道の端に、標として立っていることはまあ珍しくない。
しかし熊野に生まれ育ったヒノエがどれだけ記憶を辿っても、この道にこんな道標が立っていたことなど、一度もなかった。はずだ。
と、記憶を新たに辿るまでもなく、その立て板がおかしいことはわかった。
そこに書かれている文字の内容で。



『この先立ち入り禁止』

『熊出没注意』

『入るな危険』

『熊野別当横暴反対』

『高濃度有害ガス噴出中』

『その一歩が命取り』

『父親は大切に 〜腹とかあんまり殴らないで〜』



ヒノエはくらりと目眩を感じて思わず眉間を押さえた。

「ひ、ヒノエくん!?大丈夫!?」
「ん…だ、大丈夫だよ姫君。ちょっと身内のバカさ加減に目眩がしただけだ…

眉間を押さえたまま立て板が立てられている奥の林の中を睨みつけると、木々の間にちらちらと烏の影が見える。しかもなんかせっせと新たな立て板を立てている。

(こんなあからさまに馬鹿げた邪魔すんのは……)

考えるまでもない。最後の立て札が、見事に犯人を物語っていた。
あいつだ。
紛れもなくあの親父だ。
最後の立て札を立て終わった烏たちは、お互いに親指を立てて合図を交わすとささっと木陰に分け入って消えてしまった。が、なんだろうあのやりきった顔は。あいつらもノリノリじゃねぇか。

「なんかどんどん危ないところに入ってくみたいだからちょっと心配になって…。ヒノエくんがついてるから大丈夫だとは思うんだけど…、ヒノエくん熊倒せる?」

しかしヒノエが心底頭を抱えている一方で、それが湛快の仕業だと気づいていない望美はまじめくさった顔をして、熊が実際に出没した際の対処方法を考えている。そして倒す気でいる。
ヒノエは気を取り直し、身内の恥をこれ以上さらす前にと、一度咳払いをして望美の肩を引き寄せた。

「姫君にたてつく輩だったら何だって倒して見せるけど…お前を危険な目にさらすわけにはいかないからね。他の道を行こうか?」
「え?他の道からでも行けるの?」
「ああ、もちろん。熊野の道は全て把握してるからね」

さ、行こうか…と踵を返したとき。



『第二の異変』が起こった。


ゆら…っ

(え────…?)



「…っヒノエくん!?」

ひ…えく…ひの…ぇ…くん……のぇ…ん……

望美の声が、頭の中で反響しているかのごとく広がって聞こえる。
ヒノエは思わず、先刻とは違った意味で額を手で押さえた。
──── 一瞬、視界が、揺れたのだ。
それも、先ほどの目眩などとは比にならない。気を抜けば立っていられなくなるほどに激しく。

(な…んだ、これ…?)

────ずきんっ

「っ……!!」

そこに、続けざまに襲ってくる頭痛。
こめかみに杭を打たれたような痛みに、堪えきれず顔をしかめる。

「ヒノエくんっ!大丈夫…っ!?」

望美の切羽詰まった声も、今、左右どちらから聞こえてきているのかわからない。大丈夫だ、と言おうとしたところに耳鳴りまでし始めて、声さえも上げられずに本格的にヒノエはよろめいた。
そばにあった木にどっと背を預ける。
どくっ、どくっ、どくっ、どくっ、
心臓がおかしなくらい強く波打っている。首筋に冷たい汗が伝った。

(何が…っ起こ、って…!)
「ヒノエくん、ヒノエくんっ!どうしよう、誰か…!!」

耳鳴りの向こうに、すっかり動転してしまった望美の声が響く。頭痛に耐えながらもとりあえず動転している彼女を落ち着かせようと、その腕を取ろうとしたとき。
あたりを見回していた望美が一瞬目を疑うかのような表情を見せて道の先を凝視し……
ぱぁっと、顔を輝かせた。

「弁慶さん…っ!!」


( 弁 、 慶 ? )


『べんけい』


その四文字の羅列が耳に届いた瞬間、ヒノエの中でいくつもの疑問ががかちりと収まった気がした。

(まさか…)

まさか。
いや、もうまさかどころじゃない。この頭痛、腹痛、関節痛、悪寒吐き気眩暈その他諸々…。
このタイミングでこの悪魔のような症状が起こる原因なんて一つしか考えられない。あいつしかいない。
睨みつけるように視線を上げると、そこには。

「おや、望美さん。ヒノエ。こんなところで会うなんて奇遇ですね」

案の定、嫌味なくらい晴れやかな笑顔を浮かべる弁慶が立っていた。
しかも、顔色を真っ青にして脂汗をかいているヒノエに目をやると、わざとらしく「おや?」などと首をかしげてみせる。

「て…っめ……!」

間違いない。一服盛られた。
確信したヒノエは弁慶につかみかかろうとしたが、次第に力の抜けていく体ではそれもかなわない。
視界が暗転する最後の瞬間、珍しいくらい晴れやかな笑みを浮かべ、望美に見えないように小さく手を振る弁慶をヒノエは見た。


(…今すぐ熊でもなんでも出てこいつを殴ってくれ)


ヒノエの切実な願いは、蒼天に儚く消えた。










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