ある日1





チャ、チャ……ッ


「おや……」

 つい今し方、患家を後にしたばかりの弁慶はその声に足を止めた。
 耳を澄ませば、先ほどよりも少し遠くなった声がまた聞こえる。

「もうそんな季節なんですねぇ……」
 一人ごちて一歩足を通りへと踏み出した途端、子供の一団がワッと声を上げて目の前を駆けすぎていった。
「っと……。危ない危ない……」
 ここは五条でないことを思い出した。
 久しぶりに足を伸ばした京の中心部である。

 広い道の両側にずらりと並んで店を開く小売り。冷やかし品定めをする娘たち。あちらこちらで立ち止まってうわさ話に花を咲かせる女房たちもいれば、せかせかと足早に行き過ぎる武士もいる。棒手振りが両の籠に野菜を山と積んで人混みを抜け歩き、牛に引かせた品物を積んだ荷車が、その間を分けていく。

「……」
 軒の下に佇んでその様を見つめていた弁慶の横を、少しぬるめの風が吹き抜けて。
 弁慶は顔に掛かった明るい色の髪を耳にかけながら、すっと視線を空へと転じた。

 昨日までの鈍色を脱ぎ捨ててほんのりと明るさを増した薄青が、頭上に広がっている。

「……小春日和、という奴ですね」
 中天を過ぎた陽光に目を細め、誰に言うともなしにつぶやいた。






 カタカタ……

 弁慶が足を運ぶに従って、片手に提げた薬籠の中で小皿がぶつかる音がする。
 滅多に回ることのできない患家をいくつも訪れたから、その中身は随分減った。 
 この分では、あと二件が程がせいぜいだろう。

「どこに行っておいた方が良かったかな。気に掛かるところは大体回ったんですが……」
 顔や名前や今までに診た症状などを思い出している弁慶の横を、その間も幾人もが追い越していく。

「おや、弁慶先生!」
「え?」
 今まさに、思い出していた内の一人と同じ声に名を呼ばれて、弁慶は振り返った。
「こりゃまたお珍しい。こんな所まで今日は足をお運びですか?」
 少し小太りの女が子供の手を引き笑顔で近づいてくる。
「ええ。少し所用があってそのついでなんですけど…… その後、調子はいかがです? また咳(がい)に罹ったりなどしていませんか。調度季節の変わり目で、また流行ってきているようなんですが」
「ええもちろん! 先生が教えてくださったとおりに、朝晩のうがいを欠かしてないおかげでしょうかね。うちのもん全員、ピンシャンしておりますともさ!」
「それはよかった。これからも続けておいてくださいね。でももし罹ったら前のように我慢しないで、すぐに診せてください。でないと、また長引いてしまいますからね」
「はいはい。わかっておりますよ」
 女はニコニコと頷いていたが、
「そうだ。先生を見込んで少々お訊ねしたいことがあるんですけどね」
 ふと真顔になって顔を寄せてきた。
「なんですか?」
「ねしょんべんを止める薬なんてもんはありませんかね?」
「……は?」
「いえね、うちのこのチビがもう五つになるってのにまだするもんで……」
「し、しねえやい!」
 傍にいた子供が母親を遮るように真っ赤になって大声を張り上げた。
「へえ? じゃあ、今朝のあれはなんだい」
「あ、あれは…… 喉乾いたから水を飲もうと思って……!」
「そんで布団の真ん中にぶちまけたってのかい?」
「……っ」
 口をとがらせ眉を寄せ、恨めしげに母親を睨みつけるが精一杯。
「……だって……ピャーッって……」
 言葉尻が小さくなって消えていった。

(ああ……)
 そう言えば、夕べはやけに風が強かった。
 枝の間や家屋の隙間を吹き抜けて、妙に甲高い声を残していっていたように思う。

 つまりは、そう言うわけだ。

「厠にマ…… と、母上についてきてもらおうとは思わなかったんですか?」
 子供の前にしゃがみ込んで、その顔を覗き込んだ。
「お、おいら、もう五つなんだ! だ、だから……っ」
 ぷいと気まずそうに顔を逸らす。
 なるほど。
 幼いながらも芽生えた矜持が邪魔をしたというところらしい。
「……いくつになっても、怖いものがあってもいいと思いますよ?」
「でも……っ」
「実際。これくらいの黒い大きな犬が怖くて、道を横切れなかった神様もいることですしね」
 子供の胸のあたりの高さに手を伸ばして、にこりと笑う。
「……神様が?」
「ええ。怖くて怖くて仕方がなくて、優しい人の袂を握りしめたまま後ろに隠れるようにして、おっかなびっくりその前を通っていった神様を見たことがあるんですよ」
「……ほんと?」
「本当です。それにね、実は僕にもあるんですよ。怖くて怖くて仕方がないものが」
「先生にも?」
「ありますよ。そういう時は、誰かが傍にいてくれるととても安心するんです。だから、次からは母上についていってもらうといいですよ。そうすれば、平気でしょうからね」
「……」
 子供は、恐る恐るといった体でそっと己の母親を伺い見た。
 そうして見上げられた女は片眉を上げながらひとつ大きくため息をついて、
「布団を濡らされるよりはましさね」
「……うん!」
 子供がぱあっと心底安堵したかのような笑顔になる。

「その時に、ただの風の音だと教えてあげてくださいね」
 膝を伸ばして女に請えば、
「わかってますよ。正体見たり枯れ尾花ってところってことでございましょ?」
 女も肩をすくめて苦笑した。

「ねえ、先生」
 くいと、子供が弁慶の上着の裾を引っ張った。
「姉ちゃんは一緒じゃないの?」
「望美さんですか? ええ、今日はちょっとお友達の所に行ってるんですよ」
 また少し中腰になって、それに答えてやる。
「なんだ〜 つまんないの〜。また遊んでもらおうかと思ったのに」
 そしてまたぷくんと頬を膨らませた。
「こら、無理いうんじゃないよ。赤ん坊がいるのにお前たちなんかと遊べるわけないだろ」
「え〜 だってこの間も遊んでくれたよ。ねえ、先生。おいら達、ちゃんと子守りもするからさ、また遊んでって姉ちゃんに頼んでよ」
「いいですよ? ちゃんと伝えますね」
「ほんとっ? やった! ねえねえ。その時は先生も一緒に遊ぼうね!」

「……僕も、ですか?」
 望美はともかく自分に声が掛かるとは思っていなかった弁慶は、一瞬目を丸くする。

「こら! 先生はお忙しいんだから……っ」
「だって、先生、“こままわし”がいっとう上手いんだって姉ちゃんが言ってたんだ! だから教えて貰うんだ!」
「こまだかなんだかしらないけど、そんなもん、裏の大工に回させな! あんなの仕事なくて一日中ごろごろしてんだから!」
「やだよ! 先生の方がいい!」

「……あの」

 “こままわし”が上手いかどうかはさておいて、できないことはない。第一、その裏に住んでいるという大工にそれができるはずがなかった。なぜなら、その遊びは将臣と譲があちらの世界でやっていた子供の頃の遊びで、例によって景時が再現して望美が付近の子供達を巻き込んだがために流行りだしている遊びだからだ。簡単に言ってしまえば、それができるのはまずこの辺りでは八葉だけということになる。
 それにこのままにしておけば、往来での親子げんかに発展しかねない。ただでさえ、充分すぎるほどの人の目が集まって来つつあるのである。これ以上、騒ぎの中心になりたくはなかった。

「……構いませんよ? 僕でよければ」

 なのにせっかく口にした一言も、熱の入った言い合いを繰り広げる二人にはなかなか届いてくれず、その場を立ち去るに立ち去れなくなった弁慶だった。



+++



「ふう……」

 随分と予定外に時間を食った。
 これでは、後廻れてせいぜい一件がいいところだろう。

 カタカタと鳴り続ける薬籠を片手に、歩を進めながらまた患者の顔を思い浮かべ始めた弁慶の目端を、

 すっと

 鮮やかな色が掠めていった。

「……そう言えば。もう一人居ましたね、どうしようもない頭痛持ちが」
 言いながらも笑えてくるのは仕方がないことだろう。

 五歩ほど歩いてまったくこちらに気づく気配のない相手の背後に近づいて、

「九郎」

「なん…… ぅわ……っ」


 ごく普通に振り向いたはずの九郎に、軽く一尺は飛び退かれた。

「べ、弁慶! な、なんだ急にっ」

「……それはこちらの台詞なんですけどね」
 これはいくら何でもあまりの反応ではないだろうか。

「どこかにお忍びですか? 見なかった方が良かったならそういうことにしておきますよ。僕もそこまで気働きができないわけじゃありませんし」
「お…… ば、莫迦っ。そんなんじゃないっ! まさかお前に声をかけられるとは思ってなかっただけだ!」
 意趣返しにとちょっとつつけば面白いように反応する。
 顔を赤らめて真剣に言い訳をする昔なじみを見ていると、やっぱりつい笑えてきてしまう。
「……お前こそ、なぜこんな所にいるんだ」
 それが面白くないらしく、憮然とした表情を浮かべ、九郎がじろりと睨んできた。
「望美さんが朔殿に招かれたんですよ。送るついでにこの辺りを回ってるんです」
「……なら、少し時間はあるのか?」
「いいですよ。堀川に行きましょうか?」
「来てくれるのか! ありがたい!」
 そして向けられるのは、先ほどのことなどもうすっぱりと流し去ったまるで屈託のない笑顔で。

 ……こういうところは絶対敵わないんだろう。きっと。

 そう思った。




「なるほど、瀬戸ですか」
 九郎の部屋の真ん中に、海図が広げられている。
 先の戦の間にも、何度も陣屋の中で取り囲んだものと同じものだ。
「なかなか目が届かなくてな」
 どかりと九郎がその前に腰を下ろし、海図を挟んで弁慶も腰を落ち着けた。
「で? どこにあたりをつけているんです?」
「村上と河野と阿波だ。勢力も大きくて抑えが効きそうな水軍はまずこの三つだろうと思うんだが」
「……それが、難航していると?」
「なかなか首を縦に振らん」
「彼らは矜持が高いですからね」
 あの時も、海を渡るためにはどうしても彼らの協力が必要で、何度もしつこく要請を重ねた覚えがある。
 当時は平家という共通の敵がいたがためにその同意も得られたのだが、平家が滅びた今では彼らにも独自の野望も出てくる。
 源氏に反旗を翻さないまでも、己をできるだけ高く売りつけようとしてくるのも当然だろう。
「……安芸をまず引き入れることですね」
「安芸か?」
 弁慶の言葉に九郎が目を瞠る。
「ええ。阿波がね、安芸に色目を使っているらしいですよ。阿波は欲に聡い。安芸が一旗揚げたいと考えている足元を見てます。こちらに与するより益があると思えば、躊躇なくあちらに着くでしょうね」
「……今一番色よい返事をしてきているのは阿波なんだぞ?」
「だから尚更油断ならないと言っているんですよ。その前に安芸を傘下に迎えなさい。そうすればつくべき頭を失ってこちらに着かざるを得なくなるでしょう? 一つ味方に引き入れれば後は簡単ですよ」
「……その阿波の情報は、ヒノエからか?」
「興味もないのに烏が耳に入れに来るんですよ。まあ、こうして僕が君に伝えることを見越しての事なんでしょうけどね」

 そしてそれが熊野を第一に置かざるを得ない甥の京の守り方なのだろう。

 京と。
 そしてもう一つ。
 京に住み暮らす、どうしても失えないモノの。
 
「……ただし、こちらに着いたとしても阿波一党は油断がならないことに変わりはない」
「そう、だな。……では」
「重く扱うことですね」
「え?」
「こちらが重用していると思わせれば、自分たちが安泰だと思いこむでしょう? 村上より、というのは難しいでしょうが、少なくとも河野の上に置くことを奨めますよ。もちろん野放しにはできませんけどね」
「……」
 だが、その後に続くはずの九郎の相づちがない。
 不審に思って海図から目を上げれば、九郎がまじまじとこちらを見ていた。
「……? どうしたんですか?」
「いや……」
 九郎は小さくつぶやいて、
「しかし、安芸か…… あそこの領主は好かないんだがな……」
 ぎゅっと眉根を寄せる。
「いつものらりくらりと話を逸らせてくる…… 弁慶」
「イヤです」
「……まだ何も言ってないぞ」
「いわなくても君の言いそうなことくらいはわかりますよ。ここから安芸まで行って帰るだけでどれくらいかかると思うんです? 僕が今、京を離れることなんてできるはずがないでしょう」
「二人のことなら俺たちが……」
「余計にイヤです」
 そしておもむろに前に置かれた湯飲みを手に取り一口啜り、
「……それとも、それを僕に強いる覚悟があるんですか? 『君』に
 殊更ニッコリと笑んでみせる。
「……わ、わかった! 諦める!」
 途端にさあっと顔を青ざめさせて腰を引いたりするものだから、まだまだこの手は使えるらしいと認識した。
「わかればいいんですよ、わかれば」
 そして空になった自分の湯飲みにだけ、熱い茶を注いだ。隣にある九郎の湯飲みはそのまま放置である。

「……その性格だけは変わらんのか」
「何のことですか? 僕にはさっぱりわかりかねますね」
 涼しい顔でしらを切り、傍らの薬籠から数個の薬包を取り出して。

「……まあ、いくらでも知恵ぐらいは貸しますよ」

 薬だけよりより効くでしょう? 君の頭痛には。


 九郎の手にぽとりとそれを落とした。



+++



 それから細々と話し合って、気がつけば既に外は夕暮れの色。

 弁慶が暇を告げると久しぶりだからと九郎も腰を上げた。

「大丈夫なんですか?」
「なに。どこに行くのかは告げていく」

 そして、二人は並んで京邸へと道を辿った。





 
チャッ チャッ……



「……聞こえるな」
 耳に届いた声に、九郎が微かに目を細めた。

「ああ…… あれですか」
 弁慶も小さく頷いた。

「そろそろ、春ですからね」
「……毎年、こうして鳴いているんだろうにな。気づいていたか?」
「……去年から、でしょうかね」
「なんだ、お前もそうだったのか。俺だけかと思っていた」
 九郎が意外そうに目を見開く。
「無理もありませんよ。そんな事に気を配る余裕なんかなかったんですから」
「それは…… そう、だな」
「でしょう?」

 そして、二人期せずして、その声の主を捜すように頭上を見上げる。


「龍神の神子、か……」

 その視線の先にある紅の雲端にかかった細い月を目にとめて、九郎が零すようにつぶやいた。
 どうやら思うことは同じなのだろう。
 こうしてあの微かな囀りにさえ気づくことができるような、今を迎えることができたのは……





「ちょっと、待ちなさいよ! それでも男なの? この腰抜けぇっ!」




(な……)
 脱力するよりずっこけるより何をするよりも早く。

 弁慶はそちらを振り向いた。


 小脇に包みを抱え、右手に握った小刀を振り回しながら男が一人走ってきていた。
 当たるを幸い道行く人々を突き飛ばし、罵声を浴びせ、それはもう必死の体で。

 そして、その後ろから……


「……九郎。君は兄弟子でしょう? どうにかなりませんか」
「な……っ。なんで俺だ! それを言うならお前の方がもっと近しいだろう!」
「それはそうなんですけどね…… とりあえず、すみませんが」
「ったく…… 仕方がない」

 二人同時に左右に分かれ、素知らぬ様子で歩き始めた矢先、男がその間に駆け込んできた。



 弁慶の足が伸びて男の足を勢いよく払う。
 ために前のめりになった男の背に九郎が肘をたたき込む。
 結果。
 男は顔から地面に突っ込んで、
 
「ふぎゃわっ……っ!」
 まことに無様な叫び声を上げて、路上に伸びることとなる。




「……まあ、あいつの言じゃないが、こんな町中で刃物を振り回すとは男の風上にもおけん男だな」
 男の懐を探って鞘を見つけ出し手にした小刀をそれに収めながら、九郎が腹立たしげに言い捨てる。
「それは同感ですね。大した腕もないのに身の程知らずと言おうかなんと言おうか…… けれどまあ、そんなことはどうでもいいんですよ、この際」
 弁慶は片目を眇めて視線を転じ、

「……それはなんなんですか、望美さん」

 ここまで走ってきて、木刀片手に息を切らせている我が妻を、ため息と共に軽く睨みつけた。
「何って、木刀ですけど? ちょうど近くにいた若い武士の人が持ってたからちょっと借りてきて…… それより、こいつ何か持ってませんでした?」
 ところが望美はそんな弁慶の態度にも少しも動じないばかりか、けろりと答え、ついでに少し首を傾げて訊ねてくる。
「……これですか」
 弁慶が同時にかすめ取った包みを片手でぶら下げて示せば、
「あ、そうそう、これです! どうもありがとうございます! んっとに…… 仲間と一緒になって店から出てきたばかりの女の子の荷物をかっぱらうなんて、思いっきり最低のクズなんだから! ちょっとそいつ見張っててもらえます? わたし、とりあえずこれをあの女の子に渡してきますから!」
 息つく間もなく身を翻そうとする。
「ちょ……」
「待て、望美」
 珍しく弁慶よりも早く九郎が望美を呼び止めた。
「なんですか?」
「そいつは俺が届けてくる」
 そして、ひょいとばかりに望美の手から包みを取り上げる。
「え?」
「ついでにそいつも引っ立てて行ってやる。どうせ行く先は景時の屋敷だろう?」
 そして、まだ不格好に伸びている男を軽く肩に担ぎ上げる。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 九郎さん……っ」
「どっちにしろ、俺はもうこれでお役御免だからな!」
 そして、包みを持った手を挙げて。
「九郎さんってば!」
 
 ……振り返りもせず、さっさと行ってしまった。




 九郎にしては珍しく手際のいい去り方だ。
(人とは成長するものなんですねぇ……)
 などと、しみじみ思っていると、
「……も〜っ」
 望美が口を尖らせて、九郎が消えた方角を不満そうに睨みつけていた。

「……望美さん?」
 ちらりと視線だけを望美に向ける。
「なんですか?」
 望美がキョトンとこちらを振り仰いだ。

「……お願いしたはずですよね?」
「なにを、です?」
「僕のいないところでは無茶なんかしないでくださいって」
 それこそ何度も何度も、同じようなことをしでかす度に口が酸っぱくなるほどに。
 なのに。
「……してませんけど?」
 望美は尚更、意外そうに目を見開いた。

「……」

 それはまあ。
 あの男がかつての「源氏の神子」を凌ぐ腕などではないことぐらい、百も承知だ。
 まともにやりあえば、一合合わす前に地に伏していただろう。
 そして、望美もそれがわかっているから手を出すつもりになったのだろうし……


「……ったく」
 弁慶は、こめかみを指先で押さえながら一際大きなため息をついた。

「……怒って、ます?」
 ここに来てさすがに何かを感じたらしい。望美がそうっと上目遣いで顔を覗き込んでくる。
「怒ってませんよ。呆れてるというか…… 諦めただけです」
「どういう意味ですか、それ」
「言葉通りに取ってもらって結構ですよ。それより、なぜここに君がいるんです?」
「なんでって……」
 またちょっと唇を尖らせていたくせに、あっという間ににこりと笑って。

「……へへ。迎えに、来ちゃいました」
 薬籠を持っている左腕の袂を、つと、つまんだ。
「……僕が迎えに行くのに」
「だって、ちょっとつまんなかったんですよ。それに……」
 ふわりと、頬が染まる。

「こうしたら、景時さんちに着くまでは、二人きり、でしょ?」
 いたずらっぽく微笑んで、肩をすくめた。

「あは。こんなこと考えるのって、ママ失格かもしれませんけどね! でも…… 久しぶりだし、ちょっとくらい、いい、かなぁ……って」


「……」
 自分の袂をつまんだまま、視線から逃れるためか背後に回って左腕にこつんと額をつけて。髪をかけた耳がわずかに赤みを帯びていて。


 可愛いと、思わないはずがない。
 いっそのこと、この場で抱きしめてしまいたい。
 だが、ここは五条ではない。
 自分たちのことをよく知っている人ばかりがいるわけではなく、この京のど真ん中は見ず知らずの者ばかりだ。
 こんな所で暴走した日には、その後の返礼がかなり怖いことになるのは学習済みである。


「望美さん」
 自分の心も落ち着けるために、なるべく静かに名を呼んで、袂を握る望美の手をそっと外した。
 
「君のための手は、こちらですよ」
 そして空いている右手を差し出せば、望美が一瞬目を瞠り、

「はいっ」
 本当に嬉しそうにほころんで、きゅっと腕にしがみついてくる。


 ……それだけでも、充分満たされて。


「……僕もパパ失格かもしれませんね」
「じゃあ、後で二人でさやに謝りましょっか?」
「そうですね。……許してくれるかな」
「大丈夫ですよ! ……きっと」
「だといいんですけどねぇ……」


 そしてくすくすと笑う声が重なって、人のざわめきの中に消えていった。






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