間章「月の隠」 〜ヒノエ〜 「…で、どういう状況なわけ?」 部屋に入ってくるなり感情を感じさせない声で問うたヒノエに、景時は心なしか青ざめた顔を下げた。 「…っごめん、ヒノエくん…!」 「謝罪じゃない。状況を説明しろって言ってる」 ヒノエは声の固さを変えぬまま、景時を詰問する。腰を下ろす気配もない。 山の色が刻々と緑濃さを増す晩春の熊野。 その中心として泰然と構える別当邸に、その日珍しく高い声が響き渡った。 「ヒノエくんヒノエくん!ヒノエくんっ!!」 転がり込むようにヒノエのいる部屋に入ってきたのは、ついこの春祝言をあげたばかりの愛しい妻の姿だった。 ヒノエは何事かと驚いて、目を通していた文書を置く。 「姫君…どうした?」 何か重大な事件でも起こったのかと振り返ると、予想に反してそこにいた望美の様子は深刻そうなものではなかった。 むしろ白い頬を少し紅潮させて、何か嬉しいことがあって思わずヒノエに伝えに来たといった風だ。 それを見てヒノエは安心したが、一方で望美は今さら我に返ったように入り口の柱の横でぴたりと立ち止まってしまった。 「?」 「…ごめん。今、邪魔…?」 立ちすくんだ望美に目で問うたヒノエは、続けて発せられた言葉に思わず声を立てて笑う。 ここはヒノエの私室ではない。別当としての執務を行う部屋だ。 ヒノエの仕事の邪魔をするのを何よりも嫌がる望美は、ヒノエがこの部屋で仕事をしている間は極力近づかないようにしている。 それでも執務中は頑として望美が寄りつかないのも寂しくて、 「姫君が側にいてくれた方が仕事もはかどるかも知れないぜ?」 と一度言ってみたことはあるが、 「ヒノエくんは一人でいる方が集中できるタイプだから絶対だめ。」 と言い返された。 否定はできなかった。ヒノエが思っていた以上に、この神子姫は人の性質を見抜く眼がある。 だが今日はその例を破ってまで望美がやってきたのだ。 嬉しそうな顔をしていたから、きっと何か特別にいいことがあったのだろう。 執務に入ると半強制的に『妻断ち』させられるヒノエにとっては願ってもないことで、文机の上の書状や何やらを脇に退けて望美の方へ向き直ると、彼女を手で招いた。 「どうぞ、姫君。そんなところに立ってないで、ここに座りなよ」 近くにあった円座を自分の隣に引き寄せてぽんぽん、と叩くと、自分からここまで来たくせに望美はむ、と眉を寄せてためらう。 甘やかされるのを嫌う望美は、そういった空気を察知するととたんに警戒する。 「……今忙しいか聞いたんだけど。その書状の山は何?」 こんな風に。 意地を張ろうとする望美にヒノエは苦笑して立ち上がると、自ら彼女の手を引いて部屋に招き入れた。 「大した書状じゃないよ。それにオレにとって、愛しい姫君との時間を得る以上に忙しいことなんてないから、安心しな」 「…どこを、どうしたら、安心できるの、それが。」 大人しく腰を下ろしながらも、いつもの調子で軽口を叩くヒノエを最後の抵抗とばかりに睨め付ける。 赤い顔で睨んでも可愛いだけなのに、と惚気たことを考えたヒノエは、ふと、望美が何やら文のようなものを手にしているのに気がついた。 「望美、それは?」 「え?…ああ、そうだ。これのことで来たの」 望美はとたんに、ここへ来た時と同じ嬉しそうな表情になってその文を広げる。 ヒノエはなぜか本能的に、嫌な予感を感じ取った。 「見て!朔から文が来たんだ!」 ヒノエに向けて見せつけるように、望美はその文を広げてみせた。 ────嫌な予感は、的中した。 ひく、とヒノエが口の端を引きつらせたのにも気づかず、望美は喜々としてその内容を告げる。 「今さっき受け取ったんだけどね、…ほら、久しぶりに遊びに来ない?って!それでね、明日京に出る船に乗せてもらっていいかな……って、あれ?ヒノエくん?」 言っているうちに、ヒノエの表情がだんだんと難しくなっていったのにやっと望美は気づいた。 どうしたの?と、顔を覗きこむようにする。 (明日…って言ったよな、今、確かに…) ヒノエは望美の性格を思い返してみて、こんなこと聞いても無駄なんだろうなと思いつつあえて口を開いた。 「望美、……それさ、出発…後十日ほど待てない?」 「え?何で?」 「その船、オレが乗れないから」 ────ヒノエは明日から十日弱、大陸との交易の交渉で忙しくなる。 どうやりくりしても、明日京に発つ船には乗れないのだ。 そしてヒノエが同船出来ないとなると…『あの』京に、望美を一人で遣らなくてはならなくなる。 『あの』、京に。 (オレが一緒じゃないってわかって、あいつらがじっとしてるわけがねぇ…!) ヒノエの脳裏に、今京に滞在しているかつての恋敵たちの顔が浮かんだ。 今なお望美に特別な感情を抱いているらしい彼らを牽制するために、望美が朔に誘われて上洛するときは、必ずヒノエも一緒について行くようにしていたのだ。 それが、明日はできない。 「ヒノエくんあたしをいくつだと思ってる!?船くらいもう一人で乗れるよ!」 ヒノエの心配を他所に、望美は一人とても平和な勘違いをしていた。 そうして望美に押し切られる形で京行きを許したのが、八日前。 早く仕事を終わらせて自分も京に上ろうとしていたヒノエのもとに、景時から文が来た。 京からの文だと言うから望美からかと期待したヒノエは、つまらなさそうにそれを開いて──── ────我が目を疑った。 悪い冗談だと思いたかった。 『 望 美 が 消 え た 』 ? 「…一昨日、望美ちゃん、久しぶりに京の市が見たいからって言って一人で出かけて…」 それから、帰ってないんだ。 と言う景時の言葉を、ヒノエは無言で聞いていた。 無言、なだけであって、その心の内が怒鳴り散らすよりも激しい怒りをひそめているのは顔を見なくてもわかる。 「すぐ探したんだけど、見つからなくて…今も人を使って探してるけど、手がかりが…」 「景時。」 喩えるなら木目にぐさりと短刀を刺すような声に、景時は冷や汗をかく。 ヒノエはそのまま、続けた。 「俺が同行できない。望美のこと、任せる。……そう文も送ったはずだ」 普段と違う、静かな怒りをひしひしと伝えてくるヒノエの態度に、景時はぎゅっと目をつぶって頭を下げる。 「本当にごめんっ…!ヒノエくん…!」 「そのくらいにしたらどうですか、ヒノエ。」 凍り付くような空間に突然第三者の声が割り込んで、ヒノエと景時は弾かれたように声のした方に目をやっていた。 「弁慶…っ朔!」 戸口にかつての戦友と、そして何より妹の姿を認めた景時が思わず声を上げる。 「朔ちゃん……」 ヒノエも、我に返ったように呆けた声で呟いた。 すぐにわかった。 朔は、ともすれば兄を刺し殺しかねないヒノエの様子に動揺して、とにかく唯一彼を止められそうな弁慶に助けを求めに行ったのだろう、と。 そして────自分が景時に怒りをぶつけるばかりで、朔のことにまで配慮が出来なかったほどに、…焦っていることに。 ……唾棄したい思いにかられた。 「…ごめん、朔ちゃん。…怖がらせたね」 苦々しい胸の内に、口元に手を当てて深く息を吐く。 朔は小さくいいえ、と呟いて首を振った。よく見ればその頬が少しやつれているような気がする。 恐らく、寝ていないに違いない。望美がいなくなってから。 (今為すべきことは────こうじゃない) ヒノエはもう一度深く息をついた。 「ヒノエ」 ちょうどその時、腹が立つほど落ち着いた声に呼びかけられて、伏せていた視線を上げる。 わかってる。と、睨みつけるような視線を返すと、声の主────弁慶は、呆れたように一つ嘆息して体の位置をずらした。 戸口が、露わになる。 (今為すべきことは────) 「悪い、景時、朔ちゃん」 すっと横を通り抜けたヒノエに、二人は驚いたように顔を上げた。 二人の視線の先で、出て行く直前というところでヒノエが振り返る。 いつも通りの彼の、自信に満ちた笑みで。 「困った姫君を捕まえに行ってくるよ」 ざわ…… ヒノエは梶原邸を出た後、まっすぐ市へと向かった。 しかしその人混みの中に望美の姿を探すわけでもなく、まっすぐに前を見据えたまま早足で歩き続ける。 ふと、何の前触れもなく口を開いた。 「────あきづ、はねず」 雑踏にかき消されてしまいそうな声が漏れた後、しかし数秒も間を置かずに人波の中から現れて、音もなくヒノエの背後に付いた影があった。二人。 一人は舎人風の男で、もう一人は歩き売りをしていた女だ。 蜻蛉──あきづ──、朱華──はねず──、二人の烏の気配を感じ取ると、ヒノエは背後を確認もせずに言葉を継いだ。 「京から出る全街道沿いに網を張る。他へ送れ」 は、と諾の声もなく、蜻蛉は細路地に入る。朱華は再び雑踏の中に消えた。 そしてヒノエ自身も。 自らの手で望美の行方を捜し出すために、一陣の風のように駆けだしていた。 「っつ!」 人の間をすり抜けるように軽快に走っていたイノリは、急に額に感じた熱に思わず立ち止まった。 そのとたんに自分の持っていた荷物が、前から歩いてきていた老人にぶつかりそうになって慌てて抱え直す。 「悪いっ、じいちゃん大丈夫か!?」 腰の折れた老人はなんの、と笑ってまたゆっくりと歩き出したから、イノリはほっと胸をなで下ろした。 それにしても……、と額を指先で掻く。 「何なんだよ、今の……羽虫でもぶつかったか?」 一瞬感じた熱さのような痛みのような感覚は、今はもう無い。 しかしその感覚があった場所が場所だけに、イノリは何となく後ろ髪を引かれるように来た道を振り返った。 鬼の被害が増えるようになってからは少し活気も衰えたが、それでもなお人波の絶えることがない、市の風景。 そこにいつもと変わった何かがあるわけでもない。 「おっと、やべ!」 イノリはしばらく立ち止まっていたがふと、自分が遣いの途中だったことを思い出し、再び市の雑踏の中を駆け抜けていった。 |