落ちていく夕陽に願う君の横顔1





「きつね?」

その暖かな午後、五条の治療小屋に現れて最初に望美が口にした言葉は、
そんな一言だった。










「どうしたんですか?この子!」

望美は興味津津で靴を脱ぎ、土間から上がって来る。
薬草を選別する弁慶の横には、後ろ足に添え木を当てられ包帯を巻かれた子狐の姿があった。

「この間、すぐ裏の河原で倒れていたんですよ」

弁慶は選別を終えた薬草を箱にいれて戸棚に直す。

「野犬にでも噛まれたかな。足に怪我をしていたので、手当てしたんです。」
「そうなんだ…可哀相に…。っていうか弁慶さん、動物も治療できたんですね」

望美が少し距離を置いて狐を見つめていると、狐の方もぴくりとも動かないで
見つめ返してくる。
少し警戒されているようだ。もとより野生の動物は人間にはなつきにくい。
見つめあう一人と一匹を見て弁慶はくすくすと笑った。

「簡単な治療の仕方は、基本的に人間にするのと変わりませんからね。…それよりも」

ひょいと後ろから狐を抱き上げる。

「せっかく来てくれたのに…狐に君を独占されるのは切ないな。どうせ見つめるのなら
 僕にしてくれませんか?」
言われて、望美は一瞬目を丸くしたが、すぐにじとりと睨み上げた。

「ほんとに…恥ずかしくないんですかそんなこと言うの…」

望美は、いい加減自分も慣れればいいのだろうと思うのだが、昔から男勝りな性格だったため
こうも女性として扱われることになかなか免疫ができない。
心の奥底に隠している目の前の人へのほのかな想いが、なおさら慣れを生まないのだろう
ということはとうに自覚していた。

「それにしても、可愛いですねこの子!触ってもいいですか?」

気を取り直すように望美は、弁慶の膝の上でおとなしくしている狐に手を伸ばす。
瞬間弁慶は珍しく焦ったような顔をした。

「いけません噛まれますよ!」
「え?」

制止も時すでに遅く。
望美の手は狐に届いていた。
しかし。


「…あれ…」

望美の細い指が頭を撫でるのを、狐は心地良さげに受け入れている。
耳を倒して目を細め、鼻をすりつけてくるのだ。

「噛まれ…ませんよ?」
「噛まれ…ませんね」

二人して阿呆のように繰り返して、狐を見つめる。
望美は不思議そうな顔をして首をかしげた。

「狐って噛むんですか?」
「噛みますよ、野生の獣は皆…特に怪我をしているものは、凶暴になっていますからね」

しかしやはり狐が望美に牙をむく気配はない。
それどころか、後ろ足が片方使えない状態から器用に立ち上がると、弁慶の膝の上から
彼女の方へ移動してきたのだ。

「えっ…わ…」

望美が驚きながらも抱え上げると、狐は腕に鼻先をうずめるようにしてすり寄る。
最初の警戒もなく、完全に安心しているようだった。
弁慶は感嘆したように呟く。

「不思議だな…。その狐、僕以外の人間が触ろうとするとすぐ噛みつこうとするから
 大変だったんですよ」

そうして狐の黄金色の背をそっと撫でた。

「…どうやら君にはすっかり懐いてしまったようですね。……さすがだな」
「え?」

顔を上げると、弁慶はくすりと笑う。

「清らかな君の気に、鳥獣も惹かれるんでしょう」
「……」

望美は無言でもう一度狐に目を移した。


私が神子だから…懐いてくれるの?


そう思うと少し切なかった。

「…そんなんじゃないですよ。動物には心の綺麗な人間がわかるんです!」

ねー。と狐に話しかけるようにすると、狐は鼻をひくひくとさせてじっと望美を見つめ返す。
彼女はあははと高い声で笑った。

「なにこの子すっごい可愛いー!ねね、弁慶さん。この子なんて名前ですか?」

くるりと振り返って、望美は尋ねる。
が。


「───え?」

なぜかそのとき弁慶は、はっと我に返ったような表情を見せた。
しかし望美があれ、と思う間もなく、その口元にはいつも通りの微笑みが浮かぶ。

「───名前、ですか?」
「え…あ、はい。この子の、名前」

短い沈黙の後、弁慶は静かに首を横に振る。

「…ありませんよ」
「えー、つけてあげてないんですか?」
「ええまあ…すぐ自然に帰すつもりでしたからね」

そう言って弁慶はほうっていた薬草をまた選別し始める。


彼は部屋の中ではあの黒い外套を身につけていない。
籠に入った薬草に手を伸ばすたび、朝焼けに染まる綿雲のような柔らかな髪が、ふわり、
ふわりと揺れた。


「……」

半ば見とれるようにそれを見つめていた望美だが。

「あ。」

ある瞬間なにか思いついたように、膝の上の狐を見た。

「弁慶。」
「…はい?」

唐突に名前を…しかも呼び捨てにされ、弁慶は珍しく面食らった顔する。
思わず手を止めて見やると望美は満面の笑みで、狐の両手をつまんで万歳のような格好を
させていた。
本当によく暴れないものだ。

「名前!『べんけい』ってどうですか!」
「…はい?」

もう一度、弁慶は繰り返す。


この異世界の少女の突拍子もなさには驚かされることがままあったが、このときほど
異世界とかそんなものも関係なく彼女の意図が理解できなかったことはない。
『べんけい』って。それは。


「……それは僕の名前ですよね?」

わかって言ってます?
と聞くと、望美はむっとしてわかってますよ!と言い返した。

いや、わかっているならさらに意味がわからないんですが。

さすがに弁慶が返事に困っていると、望美は名付けるところの『べんけい』を抱き上げ、
見せつけるようにして言う。

「だってほら、この子弁慶さんと似てるじゃないですか!」

────僕は人間です。
思ったが口にせずに、弁慶は額を押さえた。
まさかとは思うが。

「………色、が?」
「そうですよ。なんだやっぱり自覚あるんだ」
「……」

自覚とかそんなものでは決してなくて、『似てる』と称されるほどの共通点といえばそれくらいしか
思いつかなかっただけなのだけど。
よもや狐に似ていると言われる日が来ようとは…。

「…それは…紛らわしいでしょう?僕はここにいますし」

とれあえず、聞けばもっともであるが自分にしては芸のなさ過ぎる抵抗を試みる。
それにさらなる反撃が返って来るなどと、予想していたはずもない。
望美は、じゃあ、と呟いて抱き上げていた狐を降ろした。

「それなら、『おにわか』で」
「────っ!」

今度こそ弁慶は、持っていた薬草も取り落としてうなだれた。

「…ちょっと待って下さい、望美さんどこでそれを…」

僕の幼名なんか。

「え?あ、ヒノエくんがいつだったか教えてくれました」
「………」
「弁慶さーん?」

黙ってしまった弁慶を、望美は覗きこむようにする。
その顔がどこか楽しそうなのは、珍しく自分の方が弁慶をやりこめられているからだろう。

「弁慶さんっ!どっちがいい?」
「どっちって…」
「『おにわか』か『べんけい』かですよ」

当たり前だといわんばかりの真顔で望美は言ってのける。
問答無用で選択肢は二択にまで絞られているらしい。
弁慶は心底頭を抱えたい気持ちで目を閉じ、眉間を押さえた。

「…本当に、そのどちらかにするつもりなんですか?」
「するつもりです。」

黄金色のかたまりを抱きしめて望美は笑う。
何故か妙な気合いを滲ませて。

「…………」

『べんけい』か、『おにわか』か。


────答えは。










「鬼若!それは食べちゃダメだってば!」

「もー鬼若!邪魔しないで!」

「おーにーわーかーっ!!」

決して広くはない部屋の中を、本当に脚を怪我しているのかという勢いで『鬼若』は走り回っていた。



さすがに今ここにいる自分の現在の名前を狐の名前として連呼されるには抵抗があった。
────というような理由で、狐の名前は『鬼若』と決定したのだ。



元々薬作りを手伝うという名目で来た望美である。
弁慶の隣に座って薬草の選別を始めたが、よほど望美になついてしまった『鬼若』が、 かまってほしいのかいたずらじみたことをしては彼女の周りを駆け回る。

「………」

もちろん一番頭が痛いのは、なつかれている望美ではなく部屋の主の方だったが。

「……望美さん、こっちは僕一人でも大丈夫ですから。…その子の相手をしてやって下さい」

見かねてそう言うと、望美は一瞬とまどったようだが、やがてしゅんと頭を落とした。

「…わかりました。これじゃお手伝いどころか邪魔になってますもんね…」

うなだれる姿は本当に花がしおれてしまったようだ。
弁慶は苦笑して、その頭をそっと撫でた。

「そういう意味で言ったんではありませんよ。ただその子が中毒作用のある薬草でも口に してしまったら大変ですから。…相手をしてやってくれる方が、助かるんですよ」

実際のところ言葉に嘘はなかった。
ただこの意外に聡い少女が、妙な風に落ち込んでしまわないように…重大な交渉をする時より 慎重に、言葉を選ぶ。
彼の甥が見れば「あんた頭でも打ったのか」とでも言いかねないほど、他の誰にも向けない 柔らかい…嘘のない表情で。
しかしながらこの意外に聡い少女はまた、意外なところでひどく鈍くもあった────こと、 自分にまつわる色恋沙汰に関しては。
自分が思いを寄せる人が、自分にだけそんな表情を見せるなど、少しも気づいていない。
望美はうー…と数秒考え込んだが、やがて鬼若を抱いてすくっと立ち上がる。

「わかりました。縁側の方に行ってますね。お庭で怪我悪化させない程度に遊んできます」
「ええ、これが終わったら呼びに行きますから」

弁慶はにこりと笑って頷く。
望美は鬼若を抱いたまま、たたたっと軽快に走って…
いくかと思いきや。

「あ。」
「?」

突然ぴたりと立ち止まって弁慶を振り返った。

「弁慶さん」
「はい?」

弁慶が顔を上げると、望美はにこっと笑う。


「鬼若のこと、『その子』じゃなくてちゃんと名前で呼んであげて下さいねー」


とっさに言葉をなくした弁慶にひらひらと手を振って、今度こそ望美は部屋を出て行く。
その後ろ姿を何とも言えない表情で見送って、弁慶は小さく息をついた。




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