落ちていく夕陽に願う君の横顔2 静かだ。 かたん、かたかた… 時折吹く風が薄い戸を揺らす。 弁慶は薬草を扱う手を止めて、ふと戸口の方を見やった。 上がり口に、落ち葉が吹き込んでかさかさと乾いた音を立てていた。 見るともなしに見て、また作業に戻る。 山と積まれた薬草を、一つ一つ手にとっては籠に入れていく。 鬼若―…… 庭の方から、小さく声が聞こえてきた。 「……」 今度は彼は顔を上げず、手も止めなかった。 ただ。 眩しい空を見上げる時のように、そっと、目を細めた。 かさっ 最後の一枚の選別が終わった。 ふ、と息をついて腰を上げる。 暗所に保存しておくべき薬草は戸棚の中に入れ、そして風を通しておくべき薬草の籠を持ち上げた。 き、軋む床を踏んで、庭のある裏手に回る。 「………おや…これは…」 約束通り小屋の裏手にある庭へ出てきた弁慶は、そこで見た光景に思わず声を上げてしまった。 そして次の瞬間、くすりと笑う。 縁側の柱にもたれて…望美は微かな寝息を立てていたのだ。 陽は天頂を少し過ぎ、強さを和らげた陽光が、彼女の脚に掛かっていた。 その日だまりのできた膝の上では、尻尾を抱き込むように丸まって鬼若が眠っている。 微笑ましい光景。 「ほんとに君は……」 何故か「かなわない」という言葉が脳裏をよぎって苦笑する。 弁慶は籠をそっと庭先に置くと、できるだけ音を立てないようにして望美の傍へ歩み寄った。 静かに腰を下ろして。 肩を並べて、座る。 「……風邪をひきますよ」 弁慶はそう呟いたが、その声はおさない眠りを妨げないようにとても小さい。 微笑んで手を伸ばし、彼女の額に掛かるくせのない髪を指で梳いた。 「ん……」 望美は小さくみじろきしたが、起きる気配はない。 吐息をもらすように笑って、弁慶も柱に背を預けた。 秋晴れの空。 遠くから聞こえてくる声と、風の音。 そして規則正しい寝息しかそこにはない。 時々ひくひくと鼻を動かす鬼若を見つめていて、ふいに弁慶は口を開いた。 「────どうして…」 どうして。 僕の名前なんですか? 怪我をした、野生の動物は人間には懐かない。 だから鬼若は、この小屋に来る患者にも子どもにも牙をむいた。 それなのに、君には懐いた。 君だけには。 ────その狐に僕の名前を、君は? 『…そんなんじゃないですよ。動物には心の綺麗な人間がわかるんです!』 そう言った彼女。 決して狐に噛みつかれた人たちの心ざまが悪かったとか、そんなことを言おうとしていたのでは ないだろう。 ただ自分がからかったから、買い言葉が出ただけ。 でもその言葉は、間違いだ。 「…この子は、僕にも懐きましたよ?」 苦笑して、呟く。 そう…狐は、望美と────後、自分だけに懐いた。 『心が綺麗だから』? 「……そんなわけ」 ない。 と、音にせず唇だけが動いた。 くるる…と聞き慣れない音がした。 眠ったまま鬼若が喉を鳴らしたのだ。 母の胸元で眠っているかのような安心ぶりに、驚くよりも苦笑がもれたのは、 『同じだ』と思ったから。 (僕とこの子は似ている) それを認めた。ただし、望美の意図したのとは、全く違うところで。 本来のあるべき野生を離れて────険しい道を離れて、望美の元で安らぎを貪っている。 それがこの狐と自分の共通点。 彼女にかりそめの夢を見ている。 (帰らねばならない現実があるのに) 狐に名前を付けていなかったのは、これがいつか自然に帰さなければならないものだったからだ。 人間に懐きすぎると、獣は野性に帰れなくなる。 なのになぜ、名前を付けようとする彼女を自分は止めなかったのだろうか。 ふっと、弁慶が思考の闇に陥りそうになった、その時。 「!」 こてん。 肩に小さな衝撃があった。 見なくてもわかる……それは。 「望美さん……」 弁慶は思わず声をあげていた。 彼の肩に頭を凭れさせて、望美はなおも眠りから醒めてはいない。 すーすーと、…規則的に寝息をたてるだけ。 「……は…」 気が抜けたように笑いながら、一瞬緊張した肩の筋肉を弛緩させた。 本当に、その言葉どおり。 気が抜けた。 「かなわないな…」 さきほど脳裏をよぎった言葉を、心底口に出す。 自分の口元が笑いの形に歪んでいるのに弁慶は気づいていた。 右肩に甘い体温。 空いた左手でくしゃりと前髪をかき上げる。 そのまま温かく円やかな望美の頭に頬を寄せ、自分も瞳を閉じる。 だんだんと高度を下げる太陽。 陽光は今、二人と一匹を守るように包んでいた。 「何もいらない」 そう思った。 「罪の贖い」 それが全てだった。 のに。 「欲しい」 そう……思わせてくれる。 手に持っていたもの、掴んだまま引きずるにはこの罪は重すぎたから。 一つ一つ、全て棄てていってもう何一つとして手を伸ばすものなんてないと思っていたのに。 罪へ近づくたび君も近づいてきた。 予測もしないところへ。 気を緩ませたわけでもないのに、いつの間にか懐へ滑り込まれている。 最初はわからなかった。でもすぐにわかった。 隙を突かれるのはきっと、自分が彼女を望んでいるから。 欲しいのだ。 この少女がくれる光が。 安らぎが。 それを認めるのは苦しくもあって、同時にひどく甘美でもあった。 彼女はそれが、手に入るものだと笑顔で言うからだ。 その笑顔は、本当にそれが手にはいるのだと思わせてくれるからだ。 こんな自分にも。 何もいらないと思った指に希望が宿りそうになる。 熱く、熱く。 かたかた… 頼りなく戸の揺れる音に、弁慶はすぅっと目を覚ました。 「────」 ずっとこのままの体勢で寝ていたのだろうか。 柱に当たっている背に鈍い痛みがあった。 「ん……っ」 少し動いた瞬間に、耳元で声がする。 首をひねるとまだ望美の頭が、自分の肩に乗っていた。 彼女の体温が伝わってきて、心の芯を温めてくれる気がする────。 弁慶はまだ眠気の抜けていないまどろんだ目元をゆったりと細めると、望美の額にそっと 唇を寄せた。 「……まだ…」 寝てるんですか? 寝起きの声は掠れていて、音にならない。 しかし唇の振動は望美には伝わったらしく、長いまつげがふるりと震えた。 桜色の唇が動く。 「……に、わか…」 その言葉に弁慶の思考が覚醒した。 「鬼若?」 鬼若が眠っていた望美の膝元。 そこに今、鬼若の姿はない。 弁慶は望美を起こさないように、首をひねって見れるだけの範囲を見回した。 眠りにつく前はまだ十分に高かった陽は、もう雲を染めて山の端に沈もうとしている。 視界の全てが黄金色の夕暮れ色に満たされていた。 しかしどこにも鬼若の影すら見あたらない。 否。 「……あ」 小さく声を上げた。見つけた。 黄金色の姿、ではない。 庭先に点々と残る…小さな足跡。 躊躇った様子もなく、まっすぐ河原の方へ続いている。 あれは帰ったのだ。 自分の在るべき場所へ────。 弁慶は神聖なものでも見るような目でその足跡を見つめ、やがて顔をまた、望美の方へ向けた。 あどけない横顔はまだ瞳を閉じている。 しかしまつげが時々ぴくりぴくりと動くのは、もう覚醒が近いのだろう。 この眠りが醒める前に。 「……望美さん。」 『誓い』を残しておきたかった。 弁慶は望美の体を支えて、静かに体をずらした。 体をかがめて、そっと、 刹那に満たないくちづけを。 「ひとつだけ」 ひとつだけ。 なら、願いを聞いてくれる神は居るだろうか。 弁慶はじっと望美を見つめた。 切望するように。 「ひとつだけ」 選んだ道を変えることはできないけれど、 君が一緒なら、 その行き着く先は変わる気がする。 欲しいものができたから。 何よりも思いを込めて呟いた。 「君の希望を…僕にください」 それは、最初で最後の願い。 あ、あれ? 開口一番疑問符なのは、このSSのリクジャンルが確か「ほのぼの」だったから…! ど、どこで間違えたんだ!しっかり切なくなっちゃってるじゃん! うぇぇごめんなさい!書き直そうかとも思ったんですがそうするととんでもなくアップが遅くなりそうなので、そのまま上げました…。ただでさえ遅いのに…(-_-; ごめんなさい雛子様!こんなのでよかったらどどどどうぞ…; |