漆黒 1





「敦盛さんっ───!!」

渦の中に飛び込むとき、覚悟は出来ていたはずだった。
私は怨霊なのだから。
もはや死んだ身なのだし。
だから最後にあなたを振り返ったとき、虚勢でも微笑んでいることが出来た。

───けれど。

あなたは泣いていた。

…私のために、泣いていた。










無限の闇の中へ、堕ちていっていた。

闇には質量がある。
包みこむようできめ細やかで、肌に重かった。

夢魔に呑まれるような感覚。
彼はこの感覚に覚えがあった。


(……ああ…)


薄く、瞼を開く。
何も変わりはしなかった。光の射さぬ闇だからだ。
重い闇の中で思う。


(理に裁かれる時が来たのか)










突然に視界は開けた。
急激な光量の変化に目が追いつかず、眩む。思わずよろめくと、柔らかい土の感触がした。
足が地についているのだ。
彼はゆっくり、ゆっくりと瞼を開いた。

脳裏に焼き付いた泣き顔が、この上なく胸を掻き乱す…。

しかしこれが理だと、ずっと知っていた。覚悟していたことなのだ。

「………」

意を決して、瞳を開く。
楽園のような景色が、そこには広がっていた。


生い茂る一面の草木。
競うように咲き誇る花々。
そして。
母親の胎内のような優しい音を立てながら…眼前を流れ行く大河。
美しい、…安らぎの景色。

「……っ」

どさっ
突然、糸が切れたように彼は膝をついた。
そのまま、茫然と川の対岸を見つめる。

「───神子…」

抑揚のない声で、呟いた。
呼んだ、のではない。届かないのは、わかっているから。

「……神子」

喉の奥から熱い塊が込み上げて来て、とっさに地についた手を握った。
爪が、生えていた草を引きちぎり、土をえぐる。
覚悟は、していた。
しかし、………


覚えておきたかった。
優しい笑顔。
柔らかな声。
滑らかな髪。
何も残っていない。

残ったのは泣き顔だけ───



「…敦盛…か?」
「!」

突然背後からかけられた声に、敦盛は弾かれたように振り返った。
この場所……この、三途の川の畔で彼の声を聞くのは、二度目だった。

「し…げ、もり、殿…」

先頃まで『還内府』と称され、平家のために戦い抜いた人と、とてもよく似ている人。
けれど、違う人。
早くに亡くなってしまった、年の離れた従兄弟の姿を見て、敦盛は苦しげに眉を寄せた。
『以前』、ここで彼に会ったときのことがまざまざと思い出される。










刃の熱さが、自分の体を貫いた、と。
そう実感した時には、もうこの体は生きてはいなかった。
気付けば、三途の川の畔……黄泉の国への入口で、たたずんでいたのだ。

(私は……)

ぽつり、ぽつりと、まばらにだが、人影が見える。
自分と同じように茫然と立ちすくむ者。
泣き崩れて地に伏す者。
様々だったが、そこに共通する真実を敦盛は悟った。

(死んだのだ。私も…彼らも…)

ひっそりと冷たい絶望が、胸を徐々に侵していく。


───そのとき。

「お前!」

聞こえた声に、はっと我に返った。
振り向く暇もなく、肩を掴まれる。

「やっぱり…敦盛、か…」
「…!」

その相手の顔を目にした瞬間、敦盛は思わず息をのんだ。

「重盛殿……なのですか…?」

信じられない思いで呟くと、重盛は苦笑して頷いてから、敦盛の頭に手を置いた。

「…考えたくなかったな、お前までこっちに来るなんて…」

その表情が不意に歪む。

「辛かった、か」

最期の、瞬間は───。

そう問われて、敦盛は胸を突く苦しさに、手を握り締めた。

「…いえ」

俯いて、頭を振る。

「いえ…いいえ…っ」

何かを振り払うような敦盛の声音に、重盛は手を放した。
すると敦盛は、苦しげな表情のままで顔を上げて、もう一度首を振る。

「いいえ、重盛殿。死ぬことは辛くはありませんでした。痛みも、さほど。しかし…っ」

敦盛の言葉の先を悟ったように、彼が言い終わる前に重盛は表情を変えた。

「…敦盛、お前…」

何か言いかけて、刹那ためらって。
ややあって、やはり口にする。

「…怨霊になるのは、怖いか。」

びくりと、敦盛の肩が跳ねる。


しばらく、肯定でも否定でもなく、ただ沈痛な静寂が流れた。


ちゃぷん…ちゃぷん…
川は魂を誘う音を奏でながら、終わりなき下流へと流れていく。

いずれ水源へ還るものか…。





「重盛殿は、清盛叔父上の呼び掛けにずっと応じずにおられた」

搾って吐き出すような声で、敦盛は話し出す。

「何故…拒み続けることができるのですか。あなたが何よりも大切に思っていた方々の、呼び掛けを」

重盛は、少し困った顔をした。
その問いは彼にとって苦しいものだったが、尋ねた敦盛の方が苦しそうな顔をしていたからだ。

「…そうだな…」

視線をそらして、言葉を選ぶ。

「…怨霊は、…本来あっちゃいけないものだ。」

視線は戻さない。
しかし敦盛がどんな顔をしているかくらい容易に想像がついた。きっと咎められた子どものような顔をしている。

「天の理に反して存在し、獣よりも誇りを失って人を屠る……悲しいだけの存在だ。お前も見て来たんだろ?」

そう言うと、重盛はふと視線を動かした。
二人から少し離れた所で崩れ伏していた男が、耳を疑うような表情をしてがばと身を起こしたのだ。
男は天を仰いでいた。
絶望していた目に、みるみる喜色が差していく。
男は、小さく口を動かして誰かの名前を呼んだようだった。しかしその声は小さすぎて聞こえない。
重盛には、その男がただ伸び上がるように天高く手を伸ばすのだけが見えた。
次の瞬間、男の姿はゆらりと蜃気楼のように揺らぎ、立ち上ぼる熱気のように……消えてしまった。


還り召されたか。


「……重盛殿。」

呼ばれて、重盛は視線を返す。
いつの間にか、敦盛も消えた男の方を見ていた。
その顔が、今にも泣きそうで。
でもこんな顔をしながら、いつもこいつは最後まで泣かなかったなと、妙な感慨が重盛の胸をよぎる。

「重盛殿…っ私は、あなたほどに強くなれない!」

───それは、悲鳴じみた叫びだった。
敦盛は、皮膚が破れるのではないかと思うくらい強く、拳を握りこんでいる。

「私は、弱い…っ!天の理を崩すとわかってなお、己の望みを棄て切れない!私はっ」

彼は一瞬だけ、その先の言葉を躊躇したように唇を震わせた。
しかし流れ出した激情は…とどまるものではない。

「私には…っ、恋しいと思う人たちがいる。私を慈しみ、愛情を与え、養ってくれた人たち…、
 会いたいと、愛しいと、思ってしまう。彼らと再びまみえるための力が…彼らを守るための力が手に入るのなら…っ!」

敦盛は顔をあげた。
正面から、重盛の目を見据える。
彼は今、理と、正論と、…そして怯む己の心と戦っているのだ。

「その力がたとえ穢れたものだとしても…私は、手に入れたいと望んでしまうのです…っ」


───告げられた、
悲痛なまでに真っ直ぐな思い。


重盛はしばらく無言で、挑むように見据えてくる敦盛の視線を受け止めているだけだった。
だがやがて…、ふっと肩の力を抜いて、答えた。

「…敦盛、俺は強くなんかねぇよ」

…え……?
と、訊き返す声に、重盛は軽く瞳を伏せる。

「どっちが強いとか正しいとか…そういうのじゃない」

これは、『選択』なんだ。

そう、彼は言った。

「俺は、黄泉から還ることを…怨霊になることを拒否した。でも本当に怨霊が哀しいものだとわかっているなら、
 さっさと黄泉還って俺が父上をお止めすればいいんだ」

でも彼はそうしなかった。わかっていながら。
───何故か?

「…俺はな、怖いんだ。」

重盛は目線を落とし、足を少し、ずらした。
ざり、という微かな音とともに草が倒れ、湿り気を帯びた土が顔を出す。

「俺だって本心を言えば、今すぐにでも舞い戻って刀を取りたい。もう一度、大切な人たちを守るために戦いたい。
 そのために平家を率いていけるのは、知盛でも重衡でもない…俺だけだって、自負はある」

だけどな。
独白のように語る重盛を、敦盛はじっと見つめた。

「戻ったら俺は…父上をお止めできない。自分が怨霊になったら、きっと俺は、消えたくないと願ってしまう。
 怨霊を否定するなんて、できなくなる。そして父上と同じように…人知を超えた力の亡者になるんだ。
 それが……怖い」
「……重盛…殿…」

『怖い』という言葉が重盛の口から発せられるのを、敦盛は恐らく初めて耳にした。
それゆえに自分の望みが赦されざる大罪のように思えた。

「……っ」
「…なんて顔してんだよ」

唇を噛み締める敦盛に、重盛は苦笑してため息をつく。

「悪ぃ、情けないこと言ったな」

敦盛は首を横に振ることで答える。
重盛は天を仰いだ。
自分の内面をさらしても、思いがけず頑固なこの少年は自分の願いを違えないだろうと、
それはわかっていた。
わかっていたからさらしたのだ。

「…敦盛、俺は選んだ。選んだだけだ。お前も選べばいいんだよ」


この言葉は、酷か。





その時だった。
ずっと黙っていた敦盛が、吸い寄せられるように上を見上げたのだ。

「敦盛?」
「今…声が……」

二人、思わず顔を見合わせて。
同時に悟る。
───呼ばれているのだ。

「しっ…重盛殿、私は…っ!」
「いいんだよ」

何か言いたげで、それでいて何も言えないような表情をする敦盛に、重盛は首を振ってみせた。

「お前はお前の願ったとおりにやればいい。俺とは違う道を選んだだけだ」

そう言って彼は笑う。
敦盛はまだ何か言おうとしたが、言える言葉など何もないことに気づいて、頷くだけにした。



陽炎のように辺りの景色が歪む。
重力が下から上へとかかっているような妙な感覚に、膝が折れそうになった。

(重盛…殿…!)

目の前にいた彼の姿ももう歪んで輪郭しか見えない。
そのとき。


「敦盛!!」


なぜかその声だけが、はっきりと聞こえた。
上から自分を招いている優しい声ではない。
はじめて聞くような、重盛の叫び声が。

「お前に…お前に託していいか!」


     『 託 し て 』


「……っ!」

何をと聞かずとも、それは、わかる。
敦盛はもう形さえわからなくなった従兄弟に精いっぱい頷いてみせた。

届いたかは、わからない。






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