漆黒 2 その約束をした───再びこの同じ川の岸でまみえるとは。 再会を、喜ぶべきなのか悲しむべきなのか…わからずに敦盛は胸が詰まる思いを味わった。 渦に呑まれたときに乱れた髪が視界にかかっていたが、払うこともできずに。 しかし対する重盛は、ほっとしたように笑って歩み寄ってくる。 「敦盛…!良かった、お前に会えて!」 そう言って、座り込んでいる敦盛の隣にしゃがみ込んだ。 こんな仕草が、将臣とよく似ていると思う。 「お前にな、会ったら言おうと思ってたこといっぱいあるんだ」 微笑みが…少し切ないものに変わる。 「ありがとな…俺の頼み、果たしてくれて」 敦盛は胸の内でその言葉を反芻した。 …果たした…か? 八葉に選ばれ、全ての哀しい怨霊を業から解き放つため、自分は戦った。 それは、確かだ。 そして最後の怨霊である自分も、今、こうして… 黄泉へと帰ってきた。 …あぁ…そうだ。 これで果たしたのか…。 「…敦盛?」 自分の顔を凝視したまま動かなくなった敦盛に、重盛は訝しげな表情を見せる。 敦盛はあわてて、必死で笑顔を作ろうとした。 「い…いえ、私はほとんど、役にも立てず…」 頭の中は、熱を持ちそうなくらい思考がぐるぐると渦巻いていた。 そんな中から何とか言葉をつなぎ合わせて、取り繕う。 「重盛殿の、黄泉還りとして…あ、将臣殿と仰るのですが、その方が……平家のために、尽力して下さり…。それに……っ」 『白龍の神子が、怨霊を封印してくれたのです。』 ────その一言が。 どうしても喉を抜けなかった。 「……っ!」 顔を上げていられなくてとっさに俯く。 (…だめだ…っ!) …最後に見た涙が消えてくれなくて。 諦めるなんてできない。 理など受け入れられない。 穢れた身だとしても過ぎた願いだとしても 彼女のそばにいたかった。 水は。 決して万物に抗わずに在った。 高みからは低みへ。 熱せらるれば天へ。 今、二人の横を悠々と流れゆく大河の波音が囁く。 『流れに逆らった者の末路だ』 「……敦盛。」 不意に低くなった声に、熱く渦巻いていた思考が一瞬影を潜めた。 力なく見上げると、重盛は少し、苦笑いして敦盛の頭を撫でる。 子どもの頃にされたしぐさだ。その深い色の瞳には、情けない顔をした自分が映っている。 「本当に…お前には感謝してる。父上も…惟盛も…ここを通って、河を渡って行ったんだ。お前のことはみんなから聞いた」 「!!」 唐突に挙げられた名前に敦盛は目を見開いた。 二人とも、現世にすがりつく魂を無理やりに浄化したのだ。自分が、八葉として…己に課した勤めとして。 「……何と…」 問う声が掠れる。平家を裏切った身を…自分たちに仇為した者を、何と言っていたというのか。 「…大丈夫だ、そんな顔すんなよ」 しかし重盛は、敦盛の髪を乱暴に乱してから手を放す。 「父上たちもな、こっちに『戻って』きてからは憑き物が落ちたみたいだよ。…お前に感謝してた。目が醒めたんだろ」 ざっ… 砂利の音を少しさせて、重盛は立ち上がる。つられるように顔をあげる敦盛の方は見ずに、河の向こう岸を目を細めて見遣った。 「…父上たちの、見た夢は…多分初めは純粋なものだった。でも怨霊の力に呑まれて穢れを振りまくようになったんだな…」 その夢も、全部。 ここに来るまでの闇に溶けたんだろう。 そう言われて…。 敦盛も河の向こうを眺め遣った。胸中には渦が再び生まれつつある。 「私…の、願いは…っ」 吐き捨てるような声音に、重盛は座り込んだままの敦盛を見下ろした。 「私の見た夢は…闇にも溶けませんでした。浅ましくもまだこの胸にあるっ…」 骨が軋むほどに奥歯を噛み締めて、嗚咽を堪える。 「浅ましい…っ!!」 ───私は愚かだ。 愚かで、欲深くて、幾度の覚悟にも関わらずまだこの心は求めるか。 わかっていたつもりの『選択』の意味も、私は何一つわかっていなかったのだ。 これは自分の選んだものの代償だというのに…! 「………」 重盛は無言で。 無言で敦盛を見つめていたが、やがてまた河岸へ視線を動かした。 白く靄がかり見渡せない対岸に、目を細める。 「……違うな」 ぽつり、と、一言。 霞に溶け消えるような声で呟いた。 「……ぇ…」 脈絡が掴めずに、敦盛は顔をあげようとする。しかしそれより先に、重盛は腰を下ろしてその顔を正面から見据えた。 「違うな、敦盛。お前の願いは浅ましいんじゃない」 そうじゃなくてな。 優しくなだめ諭すような口調とは裏腹に、その目はいつよりも真剣だった。選べばいいんだよ、と、敦盛を決して子ども扱いせずに言い放った時の目と同じ。 何か予感のようなものが敦盛の胸を突いた。 「お前の願いは……、何も、何も穢さないんだ。」 揺るがされる。 その言葉は、およそ──およそ予想だにしなかったもので。 敦盛は数瞬の間、返す言葉を探すことさえ忘れた。そしてそのままで、瞬きなどせずに目の前の男を凝視した。 揺るがされる。 「………」 何を、と、自分では言ったつもりだった。唇は確かにそう動いていた。 けれど喉を震わせる呼気はない。 (何をおっしゃるのか) 穢さない、などと。 怨霊としてのこの身──『穢』だけが己を示す言葉だと思っていた。 それを彼は違うと? 存在の根底を揺るがす言葉に絶句する。 「お前は強かったんだよ。お前は願っても、穢れに呑まれなかった」 続く重盛の言葉を敦盛は聞きたくないと思った。自分にとってすべてが甘い言葉───しかし今となってはそれは、意味のない慰めだとわかっているから。 それは重盛もわかっているはずだ。なのに口にする彼がわからなかった。 すっと音も立てず、重盛は立ち上がる。ぴくりと敦盛の肩が揺れた。 見上げるとその顔は、満たされた者のように笑っている。 「敦盛、本当にありがとうな。俺もやっと、向こう岸に行ける。…今度は俺が先に行くよ」 敦盛は一瞬言われている意味がよく分からず、呆気にとられたように瞬きをした。 しかし重盛が背を向けて、ためらわず川に入って行くのを見て弾かれたように立ち上がる。 「重盛殿!!」 現世のものではないこの川がどうなっているのか、はっきり言って想像はつかない。が、普通の川と同じならば流れは緩やかだとしても川底は不安定だろう。 しかし重盛はまったく危なげない所作で振り返ると、一瞬だけ複雑な表情をみせた。 それは微かに、ほんの微かに…羨望や憧憬を秘めた表情だった。 しかし敦盛がそこに気付き至る前に、重盛は一番彼らしい強い瞳でにっと笑う。 「…耳、澄ませてやれよ」 (耳?) 一寸戸惑った、その刹那に。 「!」 刹那にして、厚い霧が重盛を包んだ。ゆらりと水面のように、その表面が揺らぐ。 この現との境から、さらに深い黄泉へと魂を連れていくのだ。 (…後を…) 霧が重盛を連れていってしまうのを呆然と見つめながら、敦盛は思った。 (…追わなければ。…あちらに、行かなければ…私も…) しかし。 河原は川に向かって緩やかに傾斜している。その丘側を背にして、敦盛は小さく後ずさった。 不思議な予感に、心臓が沸き立つように鼓動を早めている。 (────耳を?) ふっと…… 何かに導かれるように天を仰いだ。 ─────………さん… …どくん ひときわ大きな音を立てて心の臓が跳ねる。 声が…。 己の希望が聴かせた幻か? ─────…つ…もり…さん… 「……!!」 先刻よりはっきりとそれは聞こえた。 幻聴などではない。 どくどくと脈打つ鼓動の辺りから熱いものが喉の奥に込み上げる。苦しいようなその感覚に眉をぎゅっと寄せた。 声には聞き覚えがある。どころではない。忘れたくとも決して忘れられなかった声だ。 あの綺麗な人の。 清らかな人の。 戦場では比女神のように凛としているくせに、自分の笛の音が好きだと言って笑った顔は少女のように幼かったあの人の。 声。 (何故) 込み上げる想いを言葉にして、あの人を示す言の葉にして力任せに叫んでしまいたかった。 しかし最後の躊躇が自分を引き止める。 (もう呼ぶことは許されないのに) ─────敦盛さん…っ! 「…っ……!」 あの人が、私を呼んでいる。 そう思うだけで感情が暴れ回って胸を掻き乱し、目の前が真っ赤になりそうな目眩さえ感じた。 その瞬間。 後ろで、誰かが優しく笑ったような。 背中を、大きい手が押してくれた気がして。 「──────神子!!」 抑えることなどできずに 応えた。 ざっ────!! 白い風が、足下から吹き上がる。 「つ……っ!」 かちんと音がした次の瞬間、濃紫の髪が風にあおられて広がった。銀の髪留めが地面に落ちて、草の上で一度跳ねてから川辺の方へ転がっていった。 ばたばたと着物の袂がはためく。あまりの風圧に目も開けていられない。 …ただ、その風の音を縫うように、一つの音が聞こえていた。 ちりん… 小さな鈴の音。 最後の日も、自分を彼女の元へ引き戻してくれた音。 (神子…っ!) 閉じた瞳の奥で、その人の泣き顔だけが浮かんでいた。 …さく 白い風が去った河原に、ささやかな足音が響く。 その足音は風の名残を噛みしめるようにゆっくりと歩いていたが、不意に歩調を速めた。 目的の物に辿り着くと、足を止めて、…足下に転がったそれを拾う。 「なんですか?」 後ろからついてきていたもう一人が、拾った手元を覗き込んだ。それは先ほど敦盛の髪から弾け飛んだ、銀細工の髪留めだった。 「敦盛の……捨て置くのは忍びないでしょう」 指先で髪留めのふちをこすって、少しついていた土を落とす。その仕草の優しさに、見ていた彼は柳眉を曇らせた。 「経正殿…。やはり、お会いした方が良かったのではないですか?」 「いえ、よいのです…。やはり重盛殿にお任せして良かった。私ではきっとあの子を苦しめてしまっていたでしょう」 経正は笑った。去ってしまう弟に一目会いたかったのは決して否めないが、それが本心だった。 一瞬だけじっと髪留めを見つめて、思いを振り払うように顔を上げる。 「維盛殿は」 急に切り返されて、維盛は目をしばたかせた。 経正は苦笑する。 「何か言いたいことがおありのようでしたが」 「………」 維盛は少しだけ眉を寄せて困ったような笑顔を作ると、目を伏せて呟いた。 「はい…できれば謝罪と……お礼を申し上げたかったのですが。しかしあの子は心根の優しい子ですから、会えば…そうですね、私もきっと苦しめてしまっていた」 「…これでよかったのですよ」 さく、さく 経正は水際まで降りると、維盛を振り返って言った。 「人はすべからく地に還るもの…いつかあの子もここに還ってきます。その日が、少しでも緩やかに訪れるように…」 「ええ、そう願って…我々は先に参りましょう」 二人が川に足を踏み入れると、重盛の時と同じように厚い霧が二人を包み込み始めた。 だんだん白くなっていく視界で、最後に残った空を経正は見上げる。 「大丈夫。…白龍の神子がついていてくださる」 |