その声を永遠に 2









うたごえが聞こえていた。

ららら…と、意味を成さない言の葉を、耳になれない音に乗せてうたう。
それが、意識の中に波のように忍び寄って、波のように引いていき、あたたかくて、涙が出そうになるぐらい心地よかった。
彼……弁慶は、うっすらと覚醒していく意識の中で、だんだんとその声がはっきりしていくのを感じた。
そっと、目を開く。

「────」

自分は、床に仰向けになっているようだ。
ゆっくりと、寝返りを打つように体をひねって、うたごえのする方を確かめようと思った。
聞き間違えるはずのない、声だったから……。
部屋は障子が開け放たれていて、優しい午後の光と爽やかな風が吹き込んでいる。
その部屋の入り口にぺたりと座り込んで、廊下に脚を投げ出して、風に乗せるようにうたをうたっている後ろ姿があった。

紫苑の髪の。
ちいさな背中。
切望したひとの姿。

ぐっと手を突っ張って、濡れた布のように重い体を引き起こした。
体は重いが、傷みはさほどでもないことを意外に思いながらも、どうにか半身を起こす。

うたごえはまだ、続いていた。
さやさやと響く風の音とともに、密やかに細い彼女の声。
幼子に歌いかけるような、音色。
弁慶はその音色ごと吸い込むように、一度、深く深呼吸をして…。
口を開いた。

「望美さん。」

ぴたりとうたごえが止まる。
さぁっと差し込んだ日の光が、きらきらと長い髪を照らした。
眩しい。

「望美、さん」

一瞬だけ、肺が震えて声が途切れたのを、弁慶は苦しいような幸福なような気持ちで実感した。
この名前、一つ、口にするのにこんなにも体が反応する。
心も、想いも、全て殺したと思ったのにまだ生きている。
苦笑がもれた。
存外自分は読みが甘い…。

「────」

呼びかけに答えるように、彼女は振り返った。
ずっとそこに座っていたはずなのに、初めて弁慶の存在に気づいたとでも言いたげな表情で、翠の瞳がじっと弁慶を見つめる。

「……」

こちらが息を詰めたのも一瞬。
その唇が花綻ぶように微笑んだ。

「──、────」

唇が動く。
弁慶は一瞬何が起こったのか解らずに、瞬きをした。

「……?」

望美の唇は動いている。まさに何か言葉を発しているように。
しかしその、肝心の声が聞こえない。

「…望美さん?」

思わず尋ねるように呼んだ、自分の声は確かに耳に届く。
しかしその、彼女の声が聞こえないのだ。

「────、──────」

また、唇が動いた。やはり声は聞こえなかった。
どくんどくんと早くなっていく鼓動に、弁慶は無意識にも拳を握りしめて眉を寄せる。
彼女はそんな弁慶の変調にも気づいていないように、何かとても幸せそうな様子で桜色の唇を動かし続けた。
一つの言の葉も伝わってこない状況では、その表情はとても寂しい…。
彼女から、取り残されたようで。

「望美さん…っ!」

気づいた時には、弁慶は弾かれたように手を伸ばしていた。
彼女の方に。



さっきも、さっきもだ。
戦場で君を見つけてから、何故と問いただす前に触れたいと、確かめたいと思って伸ばした手も、届くか届かないかの瀬戸際で意識から投げ出されてしまった。
そばに、いたのに。
だから────…っ



その瞬間だった。

「!」

伸ばした指がびくりと震える。
彼女に届きそうになったその瞬間、あと一寸ほどのその刹那に、異変は起こった。

空気が揺れたのだ。

比喩ではない。
彼女と自分の間の空気が、まるで水面に波紋が広がるように揺れたのだ。
二人の間に一枚の見えない水の壁でもあるかのように。

「…っ!」

弁慶は我が目を疑った。
動揺に凍り付いた直後、さらなる異変が襲い来た。
見えない壁の向こうの景色が、水に墨を流した時のように黒く侵食されていく。
庭も、濡れ縁も、光も、風も、彼女も────

「望美さん!!」

伸ばした手に、手応えはなかった。













…おかしい…

茫洋とした意識の中で、弁慶はそう思った。
つい先ほどまで、あんなにも意識ははっきりとしていたのに。
最後に揺らぎ暗転した景色が、自分の意識まで闇に沈めていったようだと思う。
そうだ。さっき。

(望美さん)

声にしたつもりが、ならなかった。
代わりに吸い込んだ空気にむせて、軽く咳き込む。
瞬間、体中に鋭い痛みが走った。

「っ」

傷みが通り過ぎるのを待ってから…目を開ける。
視界は薄暗く、霞み掛かっていた。
梁。梁が見える。
さっき見たのと同じ風景。
しかし先ほどよりは暗いし、寒い────


そこまで考えたとき、視界の端で微かに身じろぐ気配があった。

「……?」

何か、と思って少しだけ首をひねる。
そこに。

「………」

薄暗い部屋の中、弁慶の顔を覗きこむように、
枕元に座る望美の姿があった。

(ああ…)

弁慶が目を開けて、自分の方を見たのに気づくと…緊張した少女の瞳がびくりと強ばる。
先ほどの、微笑んでうたをうたっていた気配など微塵もない。

(夢、か────)

弁慶は、一度ゆっくりとまぶたを降ろしながら、思ったより冷静にその事実を受け止めていた。
そうだ、何故気づかなかったのか。
彼女が、自分に笑いかけてくれることはもう無い。
あれが────「あのとき」が最後だとお互い誓ったのだから、無言裏に。
なのに、…またも手を伸ばそうとした自分の愚かさに苦笑も洩れない。

しかし…ここは、見慣れた高館の部屋だ。
戻ってきたというのか?
どうやって?

そこまで考えて、弁慶はまた目を開いた。
目の前に、やはり彼女はいる。
消えてはいない。
そのことに安堵している心をもみ消しながら…弁慶は深いため息をついた。

「どうして…君がここにいるんですか…」

掠れた声で問うと、思ったより刺々しい響きになる。
彼女はぐ、っと唇を噛みしめた後、同じように深く長いため息をついてみせた。

「まず…それですか」
「まずそれでしょう…」

にべもなく応じて、弁慶は何とか体を起こそうと努める。
指、腕、と、一つ一つ取り戻していかないと動かない感触。
ゆっくり肘をついて、苦労しながらではあるが上体を起こす。
頼りないその動作に思わず手を貸してしまいそうになるのを、望美はぐっとこらえて拳を握りしめていた。
何とか床の上に座して…はぁ、と、再び弁慶の口から吐息が洩れる。
それは体に走る鈍痛のためだったのだが────呆れや苛立ちを含んでいるように聞こえて、望美の神経を刺したようだ。
押し殺していた怒りを吐き出すように、彼女は弁慶を睨みつけた。

「まずそれじゃないですよ…それ以外に言うこと、あるでしょう?私だけじゃなくて、九郎さんにも」
「………」

しかし、体を起こして数秒、弁慶は俯いて目を伏せたまま何も言わない。
言うことなんか…言えることなんか、あるはずがない。
九郎には、もう会えないはずだった。
自分はこの場所には、帰って来れないはずだったのだから言葉など用意していない。
望美にだって────
帰して、二度と悲しむことも傷つくこともないあの世界に帰したのだから。
逢うことなど無いはずだった。
二度と。
今さら何を言えと?


先ほどの愚かな夢に────もう手は伸ばさないと決めたのだ。



胸を刺すような痛みに、弁慶は額を押さえて顔をしかめる。
しかしその顔は伏せられていて、望美からは表情が見えない。
沈黙は自分の存在に対する無言の拒絶のようで、望美は心臓を握りつぶされるような痛みを感じた。

「何か言って下さい!」

先に声を荒げたのは彼女の方だった。
なじるように。

「ここまで来て、黙るなんて卑怯ですよ…?何か言って下さい!」

弁慶は額を押さえていた手で前髪をかき上げた。
もう手は伸ばさない。
今考えるべきことは、
彼女をどうやってもう一度元の世界に帰すか。

「言うことなんて…ありませんよ」
「!」

望美の頬にかっと赤みが増す。
記憶に刻みつけた笑顔が、怒りの表情に塗り替えられていくのが残念に思われた。
しかしその心をぐしゃりと押し消して、内心深くに隠す。
この自分の覚悟の甘さが────最後に笑顔をなどと、咎人が分不相応な望みを持ったから、彼女を封じ込めることが出来なかったのだ。
幸せな世界に。

「ああそうですね…」

わざと、酷薄な笑みを浮かべて弁慶は望美を見る。
体中が痛んだが、もう体の痛みなのか心の痛みなのかわからなかった。
自分一人ならどんな痛みでも耐えてみせる。
罰と言うなれば、この手で再び彼女を傷つけなければならないことだ。

「言うことがあるとするなら…一つ。」

とん。

弁慶は望美の正座した膝先に手を置いて、彼女を下から覗きこむようにした。

「帰って下さい。────君が邪魔なんです」




神をも呪った身に救いなど無い。







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