その声を永遠に 3









すっと。
音もなく弁慶は、乗り出していた身を引いた。
一度も目を合わせずに。
これ以上何の興味もないといった顔で。
望美は────
鼓動だけで体が震えるような怒りを感じていた。

再会できた瞬間、私を見て手を伸ばしてくれた、気がしたのに。
まだ。
まだ。
この人は。


「…馬鹿じゃないの…?」


低く空気を揺るがせた声。
ぴく、と弁慶の横顔がかたまり、怪訝な目が望美に向けられる。
そうしてようやく、その言葉が自分の口から出たものだと彼女は気づいた。
────気づいてしまえば、もう後戻りは出来ない。

「馬鹿じゃないの!?」

叩きつけるように叫んで、望美は弁慶を睨みつける。
彼は少しだけ目を見張った様子で、彼女を見つめ返した。

「私を帰した時から、ずっと一人で死ぬつもりで…っ!九郎さんまで騙して!まだ続けるの!?いい加減にしてよ!」

目頭が熱くなった。
でも泣きたくはない。
この人の硬い壁を壊さなければ、自分がここにいる意味はないと思った。

「そうやっていつも自分の中だけで片づけて、人の気持ち考えたことある!?そんな風に、残された人がどう思うか!」

悔しい。
ひとかけらでも、その背負っているものをこぼしてくれたら、それを拾って一緒に歩くのに。
この人はそれさえも拒んで許してくれない。
悔しい。

「いい加減にして!!」

それはもう…ほとんど絶叫に近かった。
膝の上に押しつけた拳が震える。




それが『契機』だった。

「────。」

弁慶は自分の中で何かがざわりと蠢くのを感じた。
抑えきれない────感情が。


気だるげに髪をかき上げていた手が、
音もなく、
額を離れて、
指が折られて、
そして────



──────だんっ!!



「っ!!」

その手は…
望美のすぐ隣に、
振り下ろされた。


「いい加減にしろ…」

低く唸るような声で、彼は呟いた。
至近距離で打ち付けられた拳に続けて聞いたその声の温度に、小さな体が哀れなほどに跳ね上がる。
びくっ、と震えて、翠色の瞳を大きく見開いた。
信じられないものでも見るように。

「……は、…こちらの台詞です」

当たり前だ、こんな振る舞いを女性の前で…それどころか他人に対して、見せたことなど無い。
弁慶はそう内心呟いて、自分が何故こんなことをしているのかわからなくなった。
違う。わかる。押しとどめようとしているのだ。
怒りよりも何よりも、解き放ってはいけない感情を。


『もう手は伸ばさない』



弁慶は痛みを堪えるように、眉間に深いしわを刻む。

「わかってないのは君の方だ」




人の気持ちを考えたことがあるか?
そう言う彼女は、絶対にこの自分の気持ちなどわかっていない。
大切だと思った少女が、自分の犯した罪に巻き込まれ、本来負うはずの無かった傷を負っているのを見る苦しみを。
それから解き放つ術が目の前にあるのに、どうしてそばに置いておける?
救う術がやっと手に入ったのに。
想いとか、そんな自分の望みでつなぎ止めていられるはずがない。
その選択が…たとえ彼女を傷つけることになろうとも。
自分のそばにいては、きっとそれ以上に大きな傷を負うことになる。
だから。





「…わかるよ。」

とさっ
軽い音を立てて、庭の木から雪の塊が落ちた。
思考が一瞬で冷やされたように、弁慶ははっと意識を浮上させる。
翠の瞳が、自分を睨みつけていた。

「わかります。私あなたほど頭もよくないし、先のことなんて何も見えてないかも知れないけど…弁慶さんが私のこと思って帰したんだとか、自分だけ犠牲にしようとしてるのはわかる。そういうやり方の方が楽なんだろうなってことも。でも…」

声は先刻の激情を裏返したかのように静かだ。
しかし睨みつける鋭さが増す。
そうされて初めて、彼女が自分を睨みつけているのは今にもこぼれそうな涙をこらえているためだとわかった。
それでも彼女は凛と顔を上げて言った。


「私、あなたに幸せにしてもらおうとなんて思ってない。」


それは────
嫌悪の言葉とは違った。
拒絶の言葉とも違った。
きっと今まで聞いた中で、一番まっすぐ突き刺さってくる言葉。
打ち付けたままの拳に跳ねた鼓動が伝わる。
弁慶は知らず、望美の目を見つめていた。

「私の幸せ、なんて…弁慶さんに決めさせてあげない。自分のことは自分でできる。…だから」

望美も逃げず、琥珀色の瞳を見つめ返す。
睨んでいた瞳が、ふっと弛むのがわかった。

「だから……ここにいるの」

駄目だ。と、弁慶は反射的に思う。
瞳を、弛ませたら────

その続きの言葉がわかる前に、そのときは来た。
弛んだ、厳しさの薄まった瞳から…ひとしずく。
ずっとこらえていた涙がこぼれる。

「そばにいたい…」



ずっと聞こえなかった、彼女の声がやっと聞こえた気がした。











波紋が広がった。
伸ばした手の、その指先から。
最後の波紋が、黒く染まった世界を洗って色彩を取り戻す。

風が吹いた。
変わらず彼女は笑っていた。こちらに手を伸ばした。
そしてうたをうたっていた唇で。


『一緒にいましょう、弁慶さん。』












「────っ!」

何も考えられなかった。
その一瞬に、最後の枷が崩れていたことさえ、気づいたのは後のことで。
ただ…

「弁慶、さん…」

その声が耳元でした、そうしてやっと、自分が彼女を抱きしめているのだと気づいた。
細くて、小さくて、この重い運命には頼りないのに。
手を伸ばしてしまった、と後悔するより、手が届いた、と安堵する心の方が大きかった。
愚かでもいい。
こんなに求めていた。

「知りませんよ…」

弁慶は低い声を絞り出す。

「今…手を離してくれなかったら、何があろうと僕は…君を…」

離せませんから────

言外の言葉を悟って、それが音になる前に望美が動いた。
腕を、そっと弁慶の背に回して。

「馬鹿ですね…やっぱり」

ぽつ、と呟く。
微かに肩が震えだした。

「馬鹿です」

涙に濡れた声を聞いて、胸の奥が熱くなる。
馬鹿、か。その言葉はたぶん正しい。
こんな選択が出来ることさえ、自分は知らなかったのだから。

「馬鹿…っ…」

ぎゅうと抱きしめてくる腕に、思わず苦笑を漏らす。
たった一言で自分の全てを変えてみせたように、思いもよらないほど大きなものを持っているくせに、
今胸の中で泣いている姿は何処にでもいる普通の女の子と変わりなくて。
しがみついて、縋りついて────。

「…ありがとう」

髪を撫でて、望美を包み込むように抱きしめなおして、弁慶は囁いた。
縋りつくことと、包み込むことが、同時に出来るのが抱きしめるという行為なんだな…と、自分にしては詮のない考えが脳裏をよぎる。

「ありがとう」

髪を梳いた手をそのまま滑らせて、彼女の熱くなった耳のあたりに触れた。
何かを予感したように望美は顔を上げる。
涙に濡れた瞳が何のためらいもなく自分を見つめているのを見て、弁慶は少しだけ眩しそうに目を細めた。

次の一言で、僕は君を永遠に縛る。
それでも…
いいんですね?


「……君を愛しています」


すっと白い頬に朱がさす。
ぎゅっと結ばれていた唇が少しだけ、ゆっくりと綻んだ。
微笑みの形に。
それを見て、弁慶は再び手を滑らせて、彼女の顎の先に添える。
少し顔を傾けて目を見つめると、促されたように望美は瞳を閉じた。
静かに顔を近づけて…お互いの吐息が感じられるほど近く。
そして、唇が重なる────


直前に。


「…君は?」
「…え?」

口づけの直前で、弁慶はいきなりそう問うた。
緊張して瞳を閉じていた望美は反射的にぱっと目を開き、思っていたより弁慶の顔が近くにあったことに驚いて後ずさる。
そのあからさまな反応が可愛くて、弁慶は思わず声を忍ばせず笑った。
後ずさっても、背中に手を回されているのだからそんなに離れられないのに。

「望美さん、君は?」
「き、君は…って?」
「……返事を、くれないんですか?」

へ、返事?
一瞬の空白の後に、やっと望美はその言葉に意味に思い当たる。
返事、つまり。
弁慶がくれた告白への────答え。
思い当たった瞬間、いっそう頬に赤みが増す。

「へ、返事って…いまさら…っ」

改めて言葉を求められると信じられないくらい恥ずかしかった。
そんなこと、今までの自分の行動全てが紛れもない答えになっているのに。
わかりきってますよね?
と、縋るような目を弁慶に向けると、彼は心底楽しそうに笑って告げた。

「いまさらじゃないですよ。聴かせてください。」

そうして…もう一度。
強く抱きしめる。

「聴きたいんです、ちゃんと────君の声で。」

その一言に。
自分のペースを取り戻すのが早い、とか、からかってるでしょ、とか、言おうとしていた言葉が全て体内に消えた。

真剣に求めてくれている。
だったら…。

望美は、意を決したように弁慶の瞳を見つめ返した。
琥珀の瞳。やっと背負っていたものを分けてくれた。

「私も、あ…」

言いかけて、口をつぐむ。
再び恥じらったのではない。この言葉では、違うと思ったから。
自分の想いを正確に表す言葉を見つけて、望美はまた口を開く。


「ずっと…そばにいます。だから」

離さないで。


彼女は小さく、しかしこの上なく幸せそうに微笑んだ。
その笑顔に後押しされるように、弁慶は今度こそ、ためらいなくその唇を奪った。
二度と離れないという想いを込めて。




記憶の中の表情が、いまやっと本当の笑顔に塗り替えられる。
たとえば今死んだとしても、最後に笑顔を思い出せると弁慶は思った。
でも、きっと自分はここで死なない。
確信できる、未来を見つけたから。


『一緒にいましょう、弁慶さん。』


やっと聞こえた声を…手放す気はないから。





終わりましたーっ!ごめんなさいごめんなさい!
リクエスト受けてから見事に二ヶ月半、ありえない遅筆でしたがなんとかアップできました!でもたぶんもう覚えてらっしゃらないですよね…;
「最初シリアスで最後ハッピーエンド」というリクエスト受けた瞬間に話の筋は思いついたのに、ほっといたらシリアスなだけで終わってしまいそうで大変でした!べんけーさーん、素直になってよー(゚´Д`゚)
でも自分的には好きなカラーのお話が書けたと思ってます。(自己満足…!?) こんな話を書かせて下さった夏樹様、7600HITキリリクありがとうございました!もしもしご覧になってたら、粗品ですがもらってやって下さい…!
そしてまた話が長いのは皆まで言わない方向で。(笑) 一つの話にエピソード入れすぎなんだね自分。短いSSをさらっと書く修行をしたいと思います。






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