第二章「そして運命は流転する」4





「望美さん、その薬壷を取ってもらえますか?」
「はい!…て、え、『その』?」

私の前に並ぶのは、同じような薬壷の列。
ど…どれだ。

「すみません。右から三つ目です」

弁慶さんは患者さんを診たまま、私の方を見ないで言う。
右から三つ目…これかな。
掌に乗るくらいの薬壷を棚から取り出し、弁慶さんに手渡す。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」

受け取ってすぐ、弁慶さんは壷の封を解いて中身を指に取った。
少し滲みますよ、と呟いて、患者さんの傷口に塗りつける。
あ…あれ、私も塗ってもらったことあるやつだ。無茶苦茶痛いんだよね、特に擦り傷とか…。
でもさすがによく効くんだけど。
塗られた瞬間、「いてっ!」とあがったうめき声に私も眉をしかめた。
でも弁慶さんの横顔は平然そのもの。

「我慢して下さい、治療しないと化膿しますよ」

お医者さんの顔だ。



弁慶さんが小屋に来てるって話は、すごい速さで広まったみたいだった。
治療を初めてすぐに、この小さな小屋は治療を待つ人でいっぱいになった。
弁慶さんっていっつもこんなにたくさんの患者さん、一人で治療してるんだろうか。
もう昼も過ぎた頃だと思うのに、一向に人の減る気配がない…。

「……」

それだけ。
それだけみんな、怪我や病に苦しんでいるってことなんだって考えると、少し心苦しい。
早く────この世界に龍神の加護を取り戻してあげなくちゃ…。



そのとき、ふと目の端に、小屋の入り口が入った。
5、6人の子どもが、入り口の柱に隠れるようにしてじっと中を覗きこんでる。

「?」

私は小屋の中を見回した。
そう言えば…小屋の中の患者さん、大人の人ばっかり。
さっきから子どもが診察に掛かってたのも見てないし…。
あれ?

「はい、終わりです。お大事にしてくださいね」

ちょうど今の人の診察が終わったみたいだから、慌てて私は弁慶さんに声をかけた。

「あ、あの弁慶さん!外にいる子ども、先に診てあげないんですか?」
「子ども?」

弁慶さん不思議そうな表情で振り向く。私はうんうんと頷いた。
子どもの方が後回しなんて可哀想じゃない!
弁慶さんはちらりと入り口の方を見て、ああ、と声をあげる。

「違うんですよ。あの子たちは…」

何か言いかけた瞬間。
ごほごほっと、ひどい咳が聞こえた。

「!」

今、弁慶さんの前に座った、次の患者さんだ。
30代くらいの女の人。顔色がものすごく悪い。
その人は私たちに頭を下げて、その瞬間また激しく咳き込んだ。

「だ、だいじょうぶですか!?」

慌てて背中をさすろうとした…そのとき。

ぽすんっ

「えっ?」

脚に小さな衝撃。
何が…と思って見ると、さっきまで外から覗いてた子たちの内の一人が私の脚にしがみついていた。
小さい…女の子。

「おかあちゃんしんじゃうの!?」
「え?」

女の子は脚にしがみついたまま、私の顔を見上げてそう言う。
おかあさんしんじゃうの…って…。
とっさに弁慶さんの方を伺うと、彼は何かまずいことでもあったかのように眉を寄せている。
…え……まさか…。

「こほっ…こ、こら、外で待ってなさいっていったのに!」

患者さんが慌てたように女の子を帰そうとした。
あ、娘さん、なんだ…この人の。
でも、死んじゃうって…。
そんなに重い病気なの?
目線で弁慶さんに問いかけると、彼は微かに頭を横に振ってから女の子の顔を覗きこむようにして言う。

「大丈夫ですよ。母上はただの風邪ですから…」

でも女の子は、ますます私の脚にぎゅうっとしがみついて、離れようとしない。

「……」

指先から、伝わってくる────。
不安、不安、母親を亡くすかもしれないっていう、恐怖…。
こんなに小さいのに。


ふわ。


「!」

女の子の目が驚いて丸く見開かれた。
私が抱き上げたから。

「ね、お姉ちゃんに名前教えてくれる?」

私は微笑んで、意識してゆっくりした口調で聞いてみた。
女の子は、びっくりした顔のまま少し躊躇って、でも

「さと。」

とあどけない声で告げてくれる。

「さとちゃんか」

もう一度微笑んで、よいしょっと小さな体を抱え直す。
高めに抱きかかえて、私の目線がこの子より下になるようにした。

「お母さんね、大丈夫だよ。先生がちゃんと治してくれるから。…死んじゃったりしないよ」

目をしっかりと見つめて、なだめるように話しかける。
真っ黒のきらきらした瞳が少し揺らいで、私と弁慶さんを見比べた。

「…ほんと?」
「うん、ほんと。」

絶対だよ、というと、さとちゃんの薄い眉がきゅっと寄って、みるみる目に涙がたまっていった。
きゅうっと私の首に抱きついてふぇ…と泣き出してしまう。
不安を、押さえきれなくなって…。

「す、すみません娘が…!あの、どうか外へ出してしまって下さい、お邪魔ですから…」
「いえ、そんな…」

邪魔だなんて…お母さんが心配で泣いてるのに、外に放り出すなんて可哀想だよ。
私は断ろうとしたけど、その瞬間弁慶さんが口を開いた。

「いえ、その子は外にやってください」
「!」

信じられない思いで私はその顔を見た。
ここで、患者さんのいる目の前で…
普通そんな言い方する…!?

「ちょ…べんけ…」
「母君は風邪です…子どもにうつると大変なんですよ」

思いっきり食ってかかろうとした私に、困ったような顔で、弁慶さんは告げた。
え…あ…。
そういう意味で…。
私が気まずい思いを抱えた瞬間に、それには気づいていないような様子で弁慶さんは続ける。

「外の子どもたちは、みんなこの子と同じなんです」
「同じ…?」
「はい、皆今ここにいる患者さんの子どもで…親が心配で、ついてきてしまった子たちばかりなんですよ。患者ではないんです」

あ────
そうなんだ、だからみんな中に入らずに…。
心配して、不安を抱えてずっと待ってるんだ…。

「望美さん、よければその子と一緒に外に出て、子どもたちの様子を見てやっててくれませんか?」

そう言われて。
私の返事なんて、一つしかないに決まってる。
深く一度頷くと、私はさとちゃんを抱きかかえたまま小屋の入り口に向かった。











「あーっ!のぞみ、動いたっ!」
「ええっ嘘!動いてないよ!」
「動いたっ!早くこっち来るの!」
「うー…はぁい…」

外からは、終始賑やかな声が聞こえてくる。
小屋の中にはしゃぎ回る子どもたちの声と、振り回されつつも思ったより手慣れた様子でその相手をする望美の声が響き渡るたび、並んで座る患者たちの間にくすくすと笑いがもれた。

「可愛らしいお嬢さんですね、先生」

患者の一人が、笑いを含んだ声で言う。
言外に含まれた意図を読み取って、弁慶は苦笑した。
無難に、そうですね、と答える。
しかしその答えでは満足できなかった他の患者が、悪意ではない好奇の笑みを浮かべながら核心をついてきた。

「先生の奥方様ですか?」
「鎌倉で娶られてきたとか!」

処方した薬を今診ていた患者に渡して、弁慶は問うてきた男たちの方を見やる。

「そう見えますか?」

浮かぶのはいつもの、人あたりのいい柔らかい笑み。それは肯定に見える。
やっぱり…と沸き立ちかける患者を横目に、しかし弁慶は首を振って見せた。

「残念ですが、そうでは無いんですよ。彼女は僕の知人の家で預かっている人で、今日は偶然手伝ってもらうことになったんです。それに…」
「それに?」

次に弁慶の前に座った患者が、先を促すように問う。
弁慶はおどけた調子で肩をすくめると、患部を見せて下さいね、と言って薬壷を手に取りながら答えた。

「僕はどうやら嫌われているようですから。」
「……」

患者たちはぽかんとして沈黙する。
誰がどう見たって、望美が弁慶を『嫌っている』ようになど、見えたはずもなかった。
望美は積極的に手伝っているようだったし、それに…。
嫌いならば、子どもに向かって「先生が治してくれるから、大丈夫」などとは言えまい。
あれは完全な信頼の言葉だ。

「またまたぁ、ご謙遜なさって!とてもそんな風じゃなかったですよ!」

一人が冷やかすように言うと、周りもどっと笑い出す。
弁慶も治療の手は止めないままにも、そうですか?と微笑みを浮かべた。
その和やかな空気の中で────。

気づけた者は誰一人としていなかった。
弁慶の、柔和に微笑んで見える瞳の色が…。
まるで軍師として戦策を練っている時のように、一瞬鋭くなったことには。







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