第二章「そして運命は流転する」5 忘れてたの。 この春の京には、一度も戻ってきてなかったから。 忘れてたの。 あの人が、いつか言ってた言葉──── 『春?春ならオレも────』 「弁慶さん!」 ひょい、と小屋の中を覗きこむと、その場にいた患者さんが揃って、私の方を見た。 え、え? 何この注目度。 「望美さん?どうかしましたか?」 「いえ、ちょっと…。な、中の方が何かあったんですか?」 「いえ?何もありませんよ?」 微笑んでそう答えた弁慶さんの言葉に、奥のおばさんがくすくすと笑う。 悪意の無い…むしろ微笑ましいって言ったふうの笑いだったから嫌な感じはしなかったけど…。 な、なんなの?何か変な雰囲気。 「それより、用事があったんじゃないんですか?」 重ねて問われて、私ははっと考えるのをやめた。 「あ、そうです。女の子が一人、眠くなっちゃったみたいで。もうお家に帰るって言ってますから、私送っていきますね」 「送って?」 弁慶さんは診療の手を止めて瞬きをする。 「親御さんはまだここにいらっしゃるんじゃないんですか?」 「それが違うみたいなんです。その女の子と、その子のお兄ちゃんと、ここに集まってる友達と遊ぶために来たらしくて。そんなに遠くないって言ってるんでちょっと行ってきます」 弁慶さんの目が、一瞬迷ったように揺れた。 一人で行かせるのを、心配してるんだろうか。 …まさかね。 「すぐ帰ってきますね!」 返事を待たないで、身を翻した。 外は少し肌寒くなってきて、オレンジ色の地面に私の影が映る…。 うわ、もう夕方だ。 「のぞみっ」 「あ、六太くん。菜子ちゃんは?」 「今寝ちゃった…起こした方が、いい?」 見ると六太くんの背中で、菜子ちゃんはもう寝息を立ててる。 小さな体だけど、小さな背中の上じゃ心許なくて…。 私は笑って、菜子ちゃんを抱き上げた。 「じゃ、帰ろうか。」 長い影が足下からずっと伸びて、歩くたびにゆらゆらと揺れた。 石ころを蹴りながら私の隣を歩いていた小さな背中が、不意に振り返る。 「なぁ、なこ、重くない?」 「ん?…ああ、大丈夫だよ?」 「のぞみが疲れたら、おれがちゃんと背負うから!」 そう言われて、私は思わずくすくすと笑った。 こんなにちっちゃいのに、ちゃんとお兄ちゃんなんだなぁと思って。 私もお兄ちゃん、欲しかったな。 「六太くん、いくつだっけ」 「やっつ!なこはいつつ」 六太くんが、強めに蹴った石が道ばたの茂みに吸い込まれていった。 「兄ちゃんたちはみんな働いてるから。なこの世話はおれの仕事なんだ」 そう言った背中は誇らしげで、力に溢れてる。 私より少し前を歩くのもそう。 横に並んで手をつなぐんじゃなくて、後ろを歩いて着いてくるんじゃなくて、前を歩いて引っ張っていくお兄ちゃんの背中……。 …少し眩しく見えた。 「なこはおれが守るんだ」 すごいことを言ってるって気負いもない。 自信過剰な子どもの戯言でもない。これは。 ただこの子の、この小さな男の子の真実なんだ。 「……うん」 胸の逆鱗の力を思った。 京に龍神の加護を、あるべき平和を。 私は小さく頷いて、ずり落ちてきた小さな体を抱え直す。 小さくても、深く眠って全体重を預けてくる体は重い。 でも、それを支えていこうとする背中が目の前にある。 「…うん。」 私はもう一度、小さな声で相づちを打った。 だからその背中は。 私が守るよ──── 「のぞみ、こっち」 「え?」 急に裾を引かれて、びっくりして見下ろした。 こっち? 私を引っ張る彼の目指す先を見て、私は眉をひそめた。 そっちは……六波羅。 はっきり言って、あまり治安の良い場所じゃない。 「おうち、六波羅なの?」 「ううん、でもここ抜けてすぐなんだ。いつも通ってるよ」 いつも通ってる…か。 確かに、六波羅って言っても悪い人ばっかりがごろごろしてるわけじゃないし、路地裏を駆け抜ける子どもの姿もあるにはある。 まっすぐ通り抜けるだけなら… 大丈夫、かな。 「わかった、行こう。でも暗くなってきたから、少し急ごっか」 「うん!」 跳ねるように頷いて歩いていく後ろ姿を追いかける。 でも私がその選択を後悔するのは────そんなに後のことじゃなかった。 嫌な予感は、してたんだけどね。 この人たちを、最初に見かけた時から。 数人の男の人が道ばたでたむろしてて、歩いてきた私と一瞬目があった。 まずいと思いつつ出来るだけ自然に目をそらせて、何気ない様子でその横を通り過ぎる。 通り過ぎてる間、その人たちがずっと私を見てるのが…首筋のあたりに刺さる視線でわかった。 まずいまずいまずい… お願いほっといて、って、祈りながら早足で歩き去ったけど、その願いが聞き届けられなかったってわかったのはその数瞬後。 数人の足音がばらばらとついてきたから… わたしはこっそりとため息をついた。 嫌な予感は……してたんだけどね。 「通して下さい。」 堅い声で言い放つ。 けれど狭い道をふさいだ男たちが動くことはなかった。 にやにやと…見てるこっちが気分の悪くなる笑みを浮かべて。 「そんな邪険にすんなよ…この辺危ねぇから、俺たちが案内してやろうって言ってんじゃねぇか」 一人の男がそう言うと、他の男が揶揄するような口調で「そうだよなぁ危ねぇもんなぁ!」と言って、何が面白いんだか全員でげらげらと笑い声をたてる。 吐き気がするほどの苛立ちを感じながら、私は自分の浅はかさを呪った。 こいつらは全員、私を品定めするように見てる…。 六太くんたちだけなら、きっと今までからまれることはなかったと思う。 こいつらは私を狙ってきたんだ。 「……っ」 着物の裾がぎゅっと握られるのがわかった。 六太くん、気丈に奴らを睨みつけてるけど…怖くないはずがないんだ。 私の胸で菜子ちゃんもまだ眠ってる。 どうにかして二人だけでも逃がさなきゃ…。 「……」 意を決して、抱いていた菜子ちゃんを六太くんに預けた。 「菜子ちゃん、だっこして。出来る?」 「う、ん。」 少し青ざめた顔で、でもしっかりと私の目を見返して、神妙に妹を受け取る。 精一杯の体で守るように抱きしめた。 「私が合図したら、まっすぐ来た道を走って引き返して。家まで行けないなら弁慶さんのとこ帰って。出来るよね」 「のぞみは…」 「まっすぐ。振り返っちゃ駄目。菜子ちゃんを守るの。出来るね。」 菜子ちゃんを守るの、の台詞にぴくりと震えて、六太くんは歯を食いしばって頷く。 それを確かめて、安心させるように一度微笑んでから私は立ち上がった。 下卑た笑いを浮かべる男たちと対峙する。 相手は三人────。 さっと相手の得物を確認した。腰は空。大したものは持ってない。 私はいつもの剣を佩いている。 六太くんたちさえ逃げてくれれば…なんとかなる相手、か…。 男たちの方に向かって一歩踏み出す。 一応、剣を抜く騒ぎにはしたくないけど…子どもたちが逃げる時間は稼がなくちゃいけない。 さりげなく、いつでも腰のものに手を伸ばせるよう構える。 けど私がそうしたのと同時に、子どもたちが逃げの気配を見せたのに気づいたのか、一人が回り込んで私たちの後ろをふさごうとした。 挟まれる!? 慌てて「逃げて!」と叫ぶよりも、速く。 「こーら、親切で言ってやってんじゃねぇか。あぁ?」 止めるまもなく、浅黒い手が六太くんの肩に無遠慮に伸びた。 小さな肩がびくっと震えて、それでも菜子ちゃんをかばおうと身をひねる──── のを、見たとき。 「……っ!」 触 る な ! ! 頭が何か考えるより先に、ちりっとした感覚が背筋を貫いて。 ────私は迷わず剣の柄に手を伸ばした。 |