第二章「そして運命は流転する」 6





それは、一瞬後。
文字通り、一度瞬きをすれば見逃してしまうような刹那で。

私の手がほとんど脊髄反射の勢いで弾けるように剣を抜き、掴まれた剣はその刀身に白光を閃かせながら、悪意を持って子どもたちに伸ばされる手に突きつけられる。
────はず、
だった。

「………」

そう。
『はずだった』。

私は呆然として顔を上げる。
手は、剣に届く間一髪手前で凍り付いていて────触れてもいない。
触れてもいないで凍り付いているのは、六太くんに伸ばされた男の手も一緒だった。
小さな肩に届く前に、引きつったように止まっている。
それは……。

「────やめな」

…その腕を、第三者の手が掴んでいたから。
数秒、奇妙な沈黙が過ぎる。
一瞬何が起こっているのかわかっていないような間抜けな顔をしていた男は、すぐに憤怒の表情を作って振り返った。
掴まれた手で拳を作って。

「なん……っ!!」

だ、てめぇ!!

けれど、たぶんそう続くはずだった罵声は、発せられることなく…
引きつった男の喉の奥に消えた。
楽しみの邪魔をされた応酬にその拳を叩き込んでやろうと、振り払うはずだった第三者の腕が────自分のものより確実に細いのにも関わらずぴくりとも動かなかったから。
だけじゃない。
『第三者』が『誰』か、気づいたから。

「目障りなんだよね…そういうの。街の空気が悪くなる」

場違いなほどに軽い調子で、彼はため息をついた。
男たちの表情に「まずい」の三文字が浮かぶと同時に、掴んでいた手を解放する。
でも奴らは六太くんに掴みかかるでもなく、ましてや目の前の彼に殴りかかれるわけもなく…揃って、二三歩後ずさった。
彼は心底呆れたような表情で肩をすくめたけれど、一瞬だけ、すっと目を細める。
鮮烈な緋色の瞳に、うっすらと凄味が増した。
一言。

「さっさと失せな」





男たちが毒づく暇もなく、蜘蛛の子を散らすように路地裏に消えた後。
見ていなかったのはほんの数ヶ月なのに、ものすごく懐かしく思える赤い髪が翻って…同じ色の瞳と目があった。

「ヒ……ノ、エ…」

くん。

無意識に、呟く。
『彼』の名を。
なんで、という思いと、そういえば、という思いが一瞬ずつ脳裏をよぎった。
そういえば、確か、いつか…言ってた?
ヒノエくんは、春────。

   『春なら俺も京にいたんだぜ?』

京に、いたんだ…!

「……っ」


知らないうちに、心臓が鼓動を速めていった。
京でヒノエくんと出会う。
熊野よりも前で、彼と接触する…これは。
これは、今まで私が繰り返してきたどれとも違う────『新しい運命』。
『運命は変えられる』
何度もこの手で、この目で、この身で実感してきたことなのに、今さらのように胸に響いた。
変えられる…かもしれない。
あの、どうしても変えられなかった運命たちも…。
変えられるかもしれない…!
京でヒノエくんに会えた。
たったそれだけのことなのに、希望の予感に心が震える。
新しい運命が流れ出したんだって。





くす、

小さな笑い声に、自分の中に沈んでいた意識がすっと体中に舞い戻った。
水の中を泳いでいて、いきなり水面に顔を出す感じ、それに似てる。
目が焦点を結ぶと、私の前でヒノエくんが心底楽しげに笑っていた。

「勇ましい姫君だね…刀なんか抜いて、どうするつもりだったんだい?」
「…え?」

そう言われて、反射的に自分の腰に目をやる。
そこで初めて、右手が剣を掴もうとする手前で固まったままだったって気づいた。
そして、その横に寄り添うようにして、不安げな顔の六太くんが私を見上げてたことにも…。

「ろ、六太くん!」

慌てて膝を折って、六太くんと目線を合わせる。

「大丈夫?怖くなかった?何にもされてない?」

あの人たち、六太くんたちには触れられなかったと思うけど…。
念を押して聞いてみる。
六太くんはやっと安心したような顔を見せて、うん、と頷いた。

「だいじょうぶ。あの兄ちゃんが止めてくれたから。でもちょっとびっくりした。」
「菜子ちゃんは…?」
「うん、なんもされてないし、起きてもないよ。」

あ、ほんとだ…。
菜子ちゃんは今の騒ぎにもかかわらず、お兄ちゃんの腕の中ですやすやと寝息を立てていた。
はぁ…よかった。
大きく息を吐き出してから、一度小さな体を二人ごときゅっと抱きしめて、立ち上がる。
顔を上げて…微笑んだ。

「ありがとう…助かったよ」

いつも調子のいいことばっかり言ってたヒノエくんに、こんなに心底ありがとうって言ったの初めてじゃないかな。
お礼を言うと、彼は肩をすくめるようにしてにこりと笑う。

「どういたしまして。困ってる姫君を助けるのは男として当然のことだからね」

そういいながら六太くんの前に歩いていって、その頭をそっと撫でた。
妹守ったもんな、ってヒノエくんに言われて、六太くんは嬉しそうに笑う。
何か…お兄ちゃんお兄ちゃんした六太くんが初めて年相応の男の子に見えて…。
思わずじいっと見つめていたら、不意にヒノエくんが振り返った。

「どこの子?」
「え?」

一瞬訊かれてる内容がわからずに、私は目を丸くした。
ヒノエくんはその間にひょいっと菜子ちゃんを抱き上げて、もう一度私を見る。

「この二人。もう家に帰さなきゃいけないだろ?」

あ、そういうこと。
気づくと陽がもう山の端に落ちかけていて、もう一度我に返った思いで私は答えた。

「六波羅を抜けたところ、すぐらしいんだけど。早く帰さなきゃ…」
「何だ、近いじゃん。それならすぐ着くよ」

じゃ、行こうか?
そう言われて、その自然さに反射的に頷きかけて…。
はたと思う。

「え?い、一緒に送ってくれるの?」

訊くとヒノエくんは、一瞬「今さら?」って顔をして…
この人らしい笑い方でにっと笑った。

「俺と歩いてたら確実に安全だからね。」


そりゃ────そうだ。










六太くんたちを無事、家まで送り届けて。
表通りまで戻ってってきた時にはもう、あたりは薄紫の夕闇に包まれていた。
うわ…こんなに遅くなると思わなかった。
弁慶さんもう診察終わっちゃったかな。

「最後まで着いてきてもらっちゃってごめんね。本当にありがと」

振り返って後ろにいたヒノエくんにお礼をいう。
結局彼は最後まで、菜子ちゃんを抱っこしたまんまで着いてきてくれたんだ。
ヒノエくんは微笑んだまま、ん、と首を傾げた。

「お礼を言われるようなことはしてないよ。でも…そうだな」

少し、体を折って私の顔を覗きこむようにする。
そしてこう言った。

「報酬が戴けるなら…御名を伺ってもよろしいですか、姫君?」

「────え…?」

茶化したようなその言葉に…
初めて気づいた。
そう言えば私たち、この運命では初対面だったんだ!
あんまり自然だから…名前言うのも忘れてた…!
一瞬の動揺を隠すように取り繕う。

「あ、ごめん言ってなかったね!えっと私は、春日望美っていうん…です、けど」

…あ、あれ?何か微妙に敬語になった。
何かやりにくいな。

「春日、望美…か。いい名前だね」

すっと、近づいていた顔が離れる。
その口が、また次の言葉を紡いだ。

「じゃ、望美。ついでにもう一つ聞いていいかい?」
「え、うん。何?」

何気なく頷いて…
薄闇の中、ヒノエくんが少し笑ったのが見える。
ふっと、嫌な予感が、した。

「オレの名前を知ってたのは、どうして?」







BACK  NEXT

top