第二章「そして運命は流転する」 7 一人きりになった小屋の中で、弁慶は使い終わった布やら薬やらを片づけていた。 日が落ちだした頃から聞こえ始めた虫の声が、一人の静寂を際だたせる。 ばさっと薬壷の下にひいていた布を払って、数回たたんで棚にしまう。 ふと感じた気配に顔を上げた時、その気配は声を伴って小屋の中に入ってきた。 「弁慶さん、遅くなってごめんなさい!」 入り口の方から聞こえてきた声に、感じたのは安堵か、────それとも他の何かか。 奥にいた弁慶は微笑んで腰を上げた。 「お帰りなさい望美さん、遅いから心配してい…」 たんですよ。 そう続くはずだった言葉は、戸口の方へ降りていく途中でかき消える。 それは──── 「………何をしているんですか、こんなところで。」 「…それはこっちの台詞だろ?五条って言うからまさかとは思ったけど…」 心底嫌そうに顔をしかめた、彼の姿を目にしたから。 「神子姫をこんな胡散臭いところにつれこんで何してんの?」 それはずいぶんと久しぶりに見る甥の姿だった。 すっかり日の落ちた道に、月明かりが三つの影を映し込んでいた。 それがゆらゆらと揺れながら、六条梶原邸へと向かっている。 「…やっぱり君を一人で行かせたのは間違いでしたね」 一通りの話を聞いた弁慶は、ふうと短いため息をついた。 「近いと言うから任せましたが…まさか六波羅のような危険なところを通るなんて。ヒノエが居合わせなかったらどうなっていたことか…」 「この辺りのことにまだ詳しくないんだから仕方ないだろ?無事だったんだからいいじゃん」 頭の上で手を組んだヒノエがそれに答える。 その二人の間に挟まれて、望美は内心肩をすくめていた。 京には何度も来てるからたいがい詳しいし、助かったのは確かだけど、ヒノエくんが居合わせなくても何とかなることはなっただろうなぁ…と。 ああそれよりも、こんなに遅くなっちゃって朔が激怒してないか心配。それと白龍が寂しがってないかな。 心ここにあらずといった望美の横顔をちらりと見て、ヒノエは口の端を持ち上げる笑みを浮かべる。 「望美、今度から出かける時はオレを呼びなよ。いつでも付き合ってやるし…それに」 (お前のこと、もっとよく知りたいしね?) 「っひゃあ!」 不意に、望美の耳元でヒノエが囁くと、望美はばっと耳を押さえて距離を取った。 その赤い顔を見て、ヒノエはくすくすと笑う。 「…ヒノエ。」 「何?なんか問題?」 弁慶の咎める表情にも、赤い瞳は好戦的に返す。 弁慶はそれ以上言葉を繋がず、ただ呆れたように嘆息するだけで応えた。 二人の間に挟まれた望美は、耳から手を離して赤くなった顔をぱたぱたと扇ぎながらじとりとヒノエを睨みつけている。 少しだけヒノエから離れ弁慶寄りになって、彼女の方が問題だと言いたげだ。 責めるような望美の視線にヒノエは一つ肩をすくめると、足を進める二人をよそに一人、その場に立ち止まった。 「?どうしたのヒノエくん」 急に立ち止まったヒノエを、望美はきょとんとして振り返る。 その後ろで弁慶も歩みを止めた。 「悪いね、姫君。オレ今夜はちょっと野暮用があってさ。…かなり不本意なんだけど、後は後ろの奴に送ってもらってくれない?」 「野暮用…?」 望美は一瞬考える。 ヒノエは確か、源氏の動向を探るために京にいたと言っていたから…別当としての用事か…。 あまり深く考えずに、頷いた。 「うん、こっちこそごめんね。助けて貰った上に遅くまで付き合わせちゃって…。今日はありがとう」 「そんな改まることないよ。オレも八葉、なんだろ?」 ヒノエはいつものように冗談めかして笑うと、じゃあね、と言ってあっさり来た道を引き返していく。 夜道にその姿が溶けて消えるまで、さほど時間がかからなかった。 「…相変わらずですね、ヒノエは…」 心底呆れたような声に望美が振り向くと、弁慶は苦笑混じりの微笑みを浮かべる。 行きましょうか、の言葉に小さく頷いて、望美は月明かりだけが照らす道を今度は弁慶と二人で歩き出した。 急に二人きりにされると、今朝まで持っていたわだかまりを思い出して、三人でいた時より距離を置いてしまう。 でも…今日一日で、望美の中で彼の印象が少し変化を遂げていた。 「……弁慶さん」 「何ですか?」 呼びかけると、耳に柔らかい声が返ってくる。 顔がこちらを向く時に、月の光と同じ色の髪が微かに揺れた。 「…その…」 「はい?」 言いづらげに望美が言葉を濁らせると、促すでもなくただ待つように静かな相づちを打つ。 望美は、わからない、という思いを深めた。 「…今日の昼間の…さとちゃんの、お母さん。」 「ああ…はい、あの方が何か?」 いきなり振られた話題に、弁慶は心底意外な気がして望美の横顔を見やる。 彼女の目は険しい色をともして、一歩一歩歩く彼女自身のつま先を睨みつけていた。 「……ほんとに…」 小さく呟く。 ────ただの風邪ですか? 「────、…」 望美の言葉に、弁慶は目を丸くして一瞬足を止めかけた。 その瞬間、ずっと俯いていた望美の顔が弾かれたように上がる。 否と言わない、一瞬の沈黙、それが意味するものは────。 ………嘘。 望美の心には絶望が走った。 「やっぱり…もっと重い病気なんですね……」 もっと重い、どころか。きっと。 ──────助からない? しかし望美がぎゅっと拳を握りしめた瞬間、その心の声が聞こえたかのように弁慶は首を振った。 暗闇ではよくわからない。 でも……真剣な表情をしているということだけは、わかる。 「いいえ。」 「嘘」 「いいえ…本当に、あの女性は単なる風邪です。それは本当です」 風が吹いた。 風が吹くと、黒い影としか映らなくなった木立が不穏な音を立てて大きく揺れた。 弁慶の金糸のような髪だけが、月の光を集めて繊細に輝く。 「ただ…ね」 「……ただ?」 弁慶が風邪だと言い切ったことで、少し薄まっていた不安の色が望美の表情にまた滲んだ。 弁慶はすぐには応えず、表情を緩めて「とりあえず歩きましょう」と望美の肩を押す。 「ただ、あの方の夫……さとさんのお父上は、病で亡くなっているんですよ。昨年…咳のひどい病ででした」 「!」 咳────。 望美は、昼間見たあの女性の症状を思い出す。 苦しそうに咳をして、それを見たさとちゃんが…。 しかし予感をもう一度打ち消すように、弁慶は首を振る。 「伝染ったわけではありませんよ、彼女は本当に風邪です。…ですが、そうやって亡くなった父親の姿を見た娘さんには、きっとそうは映らない。あの咳が父親と同じように…母親も連れて行ってしまうと思っているんでしょう」 望美は無言で、見上げていた弁慶の横顔から目をそらしまたつま先を見つめた。 『おかあちゃんしんじゃうの!?』 そう叫んで、しがみついてきた小さな手。 そこから伝わってきた、不安、恐怖……。 「────京から、龍神の加護が失われたせいです」 一瞬、虫の声が止んだ。 その瞬間に重なった弁慶の声に、望美の心臓がどきんと音を立てた。 普通に聞いていたら聞き逃してしまったかも知れないが、少しだけその語勢が今までと違う。 「今日の患者さんの数、驚いたでしょう?」 「……はい」 確かにその通りだった望美は、素直に頷く。 診察は久しぶりだったらしいが、全員の診察を終えるのに丸一日かかったのにはさすがに驚いた。 「昔は、これほど病に苦しむ人は多くなかったんですよ。しかし、この京から応龍の加護が失われて以来、…都は荒廃し、病も蔓延するようになりました」 応龍──── 白龍と、黒龍。 二つの龍の調和した形。龍神の、本来あるべき姿。 それを。 分かたったのは………。 「…っ」 望美は思わず息を呑んだ。胸にひやりとしたものが走った。 彼の『罪』を自分は知っている。 その償いのために…彼は────。 「…僕はこの京を、このまま廃れさせたくはないんですよ」 強ばった望美の様子に気づいているのかいないのか、弁慶は語りかけると言うよりは独り言のように呟いた。 望美はただただ機械的に足を動かす。そのつま先を見つめる。 もう次の辻を曲がれば梶原邸というところまで来ていた。 その角も曲がって、門先の明かりが見えた時に、弁慶は今までの雰囲気をかき消すように顔を上げて望美の方を見る。 「やっと着きましたね。今日はすみません、いろいろ手伝わせてしま…」 「弁慶さん。」 望美は弁慶の歩みを遮るように、一歩大きく踏み出して振り返った。 振り返ったは良いものの、未だ視線は俯いたまま、弁慶の顔を見るわけでもない。 渦巻く想いがあった。 「応龍は、必ず私が、復活させますから。」 ぶつ、とちぎって押しつけるような物言いに弁慶は軽く目を見張る。 不自然なくらいに言葉から感情が伝わってこない。 「望美さん?」 「私じゃ頼りになりませんか。」 どこか苛立たしげにもとれる仕草でくしゃりと髪を掻き上げる望美に、弁慶は静かに眉をひそめた。 しかしそんな様子を微塵も感じさせない声音で答える。 「まさか、君のことは僕も含めみんなが頼りにしてますよ。…すみません、君の重荷になる物言いをしたみたいですね」 そういうつもりで言ったんじゃないんですよ。 と、弁慶は一歩近づいて背をかがめ、望美の顔を覗きこもうとするような仕草を見せる。 だが望美はそれ以上の接触を拒むように、弁慶が近づいた分だけ後ずさった。 「だから…っ、そうじゃなくて、」 掻き上げた髪を耳の後ろあたりでぐっと掴んだ。 望美はそのまま、数秒沈黙する。 「私は大丈夫ですから、私がちゃんとやりますから、…任せてくれませんか」 任せて。 一人で、黙って、 …死んでいくのは、やめて…・。 「!」 不意に手に触れた感触に、望美はびくりと体を強ばらせる。 「………」 弁慶は無言だった。 少し体温の低い手がぐしゃりと髪を掴んだままの自分の手にそっと添えられて、指の一本一本をほぐすように優しく、だが何故か抗えない力で開かせていった。 乱暴な扱いを受けていた紫苑の髪が解放され、安堵したように指の間を滑り落ちて────。 最後にくいっと、握るもののなくなった手を引かれて望美は顔を上げる。 「君こそ…僕はそんなに信用無いですか?」 微かに、微笑んだような琥珀の瞳に見つめられて、望美は思わず息を止めた。 吸い込まれそうになる。 言ってしまいそうになる、全て。 抱えてる思いや、置いてきたつもりの悲しみや、心にこびりついて離れないたくさんの喪失、迷い…。 しかし。 「八葉は、神子を守るものです。僕たちが居ますから…君が一人で無理をしなくて、いいんですよ」 そう言われた、瞬間に。 「神子は…っ!」 ぱしんっ 小さな乾いた音が鳴った。 望美が弁慶の手を振り払ったのだ。 しかし図らず取った行動だったのか、自分のしたことに驚いたように望美は言いかけた言葉を噤んだ。 神子は────。 (守られるために…あるんじゃない…) きり、と下唇を噛む。 ダメだ、冷静にならなくちゃ、冷静に冷静に冷静に…… 熱くなった胸の内の空気を吐き出すように、望美ははっと短い息をついた。 「ごめんなさい。」 断ち切るような声で詫びて顔を上げる。硬いが、口元に笑みさえ浮かべていた。 唐突なその変化に弁慶は小さく瞬きをする。 「変な話して、引き留めちゃいましたね…っ。ここまでで、大丈夫ですから、……帰ります」 「望美さん」 すぐにでも背を向けてしまいそうな望美に、弁慶は思わず声をかけた。 しかし望美はそれには応えなかった。 「今日は、お疲れ様でした!…おやすみなさい」 くるりと身を翻して、走り去っていく背中。 大きく風が吹いた。 真黒な木立を、一瞬何の音も聞こえぬほどざわめかせた。 「………」 弁慶はしばらく立ちつくした後、ざわめきが収まるのと同時に踵を返す。 先ほど曲がったばかりの辻を再び曲がった時、唐突に口を開いた。 「────で、とんだ野暮用ですね?ヒノエ。」 立ち止まって、真っ黒な樹陰を見つめる。 数瞬置いて、そこに人影が現れた。 漆黒に、炎が点ったような赤い髪の人影だった。 |